岩瀬達哉氏が著し、講談社から発行された本の名前だ。


半分くらい読み進めて大なる気づきがあった。


1968.10.5に栃木県矢板市で起きた尊属殺人事件。


加害者の女性が、実父から、長年レイプされ続け、何人も子どもを産まされ、その地獄の状況から逃れるために、やむなく殺害したものであり、法曹界や、世間から、大いに耳目を集め、これがキッカケになり、尊属殺人罪が、法の下の平等を定めた憲法に反するとして、廃止された。


その法改正の可否を論ずる最高裁の15人の裁判官による合議で、14人は賛成。ただ一人異論を唱えた、外交官出身の裁判官、下田竹三氏。


彼によると、栃木県の事件は、何と言っても殺人事件であることに変わりなく、家の長たる父親に対して殺害行為に及ぶなど、日本古来の価値観にも違背する、とんでもない所業である。或いは、被害者たる父親のそれまでの生活状況に対する憐れみ・同情の必要もあるみたいな見解を示している。


この発想は、死刑反対論者の主張と全く変わらない❌


死刑反対論者は、死刑自体が、(国家による)殺人犯罪だと言う。


つまり、下田武三氏の主張は、死刑反対論者の主張と同じである。


別な言い方をすれば、両者とも、「木を見て森を見ず」。


くどい言い方だが、両者とも、見たい部分だけを見て、他の部分に、あえて目を瞑るのである。


死刑反対論者は、殺人犯たる死刑囚への

思い入れだけでできあがっており、被害者と遺族への共感はゼロである。


合議の結論に従い、1995年に刑法が改正されて、尊属殺人罪はなくなった。


この結果としての現今の状況に対して

死刑反対論者に、異存はないであろう。


であるならば、死刑反対論者は、客観的正論とも言うべき、死刑賛成論になぜ賛同しないのか。


時代の流れに反する下田武三氏的な主張を、死刑反対論者は、なぜ、疑問も持たずに、し続けるのか?


今回の私の主張に対しては、死刑反対論者も、反論の余地はなかろう。


ごまかしではない。よく読み返してほしい。