忠臣蔵。
時代劇に目がない私にとって「忠臣蔵」のドラマをみることは、師走の歳時記のひとつであり、日本人の心の在り方を再確認する大切なツールにもなっている。
膨大な数の登場人物にはその人数分の背景があり、様々な思惑は千々に乱れながらも一つの大きな目的に収束されていく。忠義の心は主君亡き後も消え去ることはなく、愛の残り火はやがて大きな炎となって家臣たちを「仇討ち」へと向かわしめる。
不幸な死に追いやられた主君への愛を貫く行動(ラブ・アクション)に勧善懲悪の理を見出し、「美しい忠義の心」を称えながらあたら散る多くの命に涙したものだったが、このごろは少し観点が変わってきた。
悲運の人と思っていた浅野内匠頭が、こらえ性のないお坊ちゃんに見える。いくらなんでも松の廊下で刃傷沙汰はまずいじゃん。「殿中でござる」んだよ。それに至るまでの忍従も並大抵ではなかったと想像はつくけれども、コンプライアンスってもんが、ねえ。
連綿とタブー視されてきた行為をやっちまったんだから罰せられるのは当然、ではあるが。
トラブルメーカー吉良上野介。
雅な家柄を誇る高家だというのに、パワハラかましすぎ。そもそも袖の下をせびるなんてお下品ざますわよ。そういうことは、藩主の浅野でなくて、家老の大石あたりにこそっと耳打ちしといたほうが穏便に運ぶもんなのにさ。世間知らずねえ、ほんとに。それと、地方出身の人間に「田舎者」なんて言っちゃいけないんだよ。気にしてるんだからさ。
幕府も幕府だ。
喧嘩両成敗の原則はあんたたちが決めたことでしょ。浅野ひとりを責めて詰め腹切らせるのはアンフェアだよ。吉良のじいちゃんだって悪かったんだから。そんで、世論の動きを見ておろおろしてたりする。政治ってほんとに何百年たっても、誰がやっても変わらないのねえ。
浅野家家老、大石内蔵助。
断腸の思いで妻子を離縁したわりには、潜伏先でしっかり女作ってる。仇討決行までに1年半以上の時間をかけたのは、もしかして本当は討ち入りをしたくなかったからのでは?と思えてしまう。幕府が急に気が変わって、浅野家を再興させてくれるかも、というわずかな期待があったのではないか、とか。カモフラージュの豪遊の陰で他の家臣はド貧乏にあえいでいたというのに。
そして、浅野家家臣たち。
仇討ちの先にあるのは切腹だとわかっていても、命を捨てるために生きる道を選んでしまうなんて。武士道が死ぬことであった時代だからとて、他にも生き方はあったはずなのに。
複雑に絡み合う人間模様は、まさに ヒューマン・リーグ。47人に突きつけられた命題は Do Or Die ではなく Do And Die であった。
赤穂浪士たちの死に様に涙した後は、キリストの生誕に浮かれるのが師走の流れ。そこに仕事の年末進行や子供たちの帰省、年越しの用意など、脳内活動と現実生活がいつも以上にカオス状態で、気持ちだけが先走っていく日々が続く。どっとはらい。