1787年(天明7年)になります。


小田新之助(井之脇 海)ら一党が、田沼家御用達の米屋の戸を木槌で壊し、次々と米俵を運び出しています。

蔦重は意次(渡辺謙)に呼び出されます。
蔦重は米を配れないなら金を配り、騒動をおさめてはどうかという提案をします。

意次はその案を採用し、蔦重に「金を撒く」というビラを配らせます。

斎宮太夫(新浜レオン)など芸人を集め、華やかな告知隊を結成します。
浄瑠璃や鳴り物を用いて、町を練り歩きながら人々に訴えます。

すると江戸の空気が一変します。
斎宮太夫の節回しに人々は足を止め、騒乱も鎮まっていきます。


そんな中、蔦重の背後に忍び寄る影が・・・
匕首を持った男が蔦重に襲い掛かります。

それを新之助が身を挺して守り、わき腹を刺されます。


「俺は世を明るくする男を守るために生まれてきた」という言葉を残し、亡くなります。


その頃、大奥では高岳(冨永 愛)が、かつて種姫の名で亡き徳川家基に贈った「死の手袋」をネタに大崎(映美くらら)にゆすられています。

大奥は定信(井上祐貴)の老中就任を認める。


一橋邸では、治済と定信が会っています。
定信は、老中首座以外なら老中の話を断ると伝えます。
幕府に田安家を差し出すならと条件を持ち出す治済。


混乱が収まった頃、蔦重は墓地で手を合わせています。
そこへ歌麿(染谷将太)が絵を差し出します。
その絵を見て、蔦重はいつまでも泣き続けました。



【天明の江戸打ちこわし】

天明7年5月12日(1787年6月27日)頃から局地的に小規模な打ちこわしが発生した。

天明7年5月21日(1787年7月6日)、打ちこわしは江戸の中心部から周辺部にかけての全域に広まった。
また22日頃からは打ちこわしの混乱に乗じた盗みが見られるようになった。

天明7年5月23日(1787年7月8日)、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡した。
困窮者に対する施行が始った。
一人当たり銀三匁二分を支給し、米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。

天明7年5月25日(1787年7月10日)には江戸打ちこわしはほぼ沈静化した。

打ちこわしの被害に遭った商家は、一橋家の調査によれば500件軒余り、うち400軒以上が米屋、搗米屋、酒屋などの食料品関連の商家
米を買いあさり売り惜しんだ商人たちが主に打ちこわしの標的とされた。

天明の江戸打ちこわしの参加者の実数は不明であるが、総勢5000人ほどであったとの記録が残っている。