1776年(安永5年)になります。

駿河屋の2階座敷には吉原の主人たちが集まっています。
完成した来春の「吉原細見」を蔦重が納めようとすると、若木屋は市中の本屋とも付き合いたいので、耕書堂ではなく鱗形屋の細見を取り扱うことにすると言い、席を立ってしまいます。

結局、『青楼美人姿合鏡』は売れ残り、蔦重には借金だけが残ります。

8代将軍吉宗公以来48年ぶりの日光社参が始まりました。
その長い行列は、出立だけで12時間かかったといいます。

その長い長い行列を見物に群衆がつめかけ、商人は物を売りまくります。

駿河屋に呼び出された蔦重は、吉原で「俄(にわか)」という祭りを開催する命を受けます。
(「俄」とは、もともと即興で演じられる寸劇のことを指し、江戸時代には庶民の娯楽として親しまれていました。特に吉原の「俄」は、遊郭文化と結びつき、遊郭で働く者達や芸人、時には遊女までが演じる特別な催しとして楽しまれていました。)

そこに馬面太夫を呼びたいとのこと。馬面太夫は浄瑠璃の新進、富本節のスターです。
(富本節とは、浄瑠璃の流派の一つ。富本豊志太夫が1748年に常磐津節から分かれて創始。2代目富本豊前太夫が活躍して全盛期を築く。)

そこで蔦重は芝居町へ出向き、芝居小屋で、馬面太夫こと富本午之助(寛一郎)を鑑賞し、声の素晴らしさ、世界観などに衝撃を受ける。

吉原の祭り「俄」への出演を頼む蔦重ですが、吉原は好かねえんだよと一蹴されます。

太夫公認の「直伝」が出版されていない富本節。この機会に「直伝」を出せれば…と蔦重は考えます。
(「直伝」とは浄瑠璃の歌詞とメロディーが書かれた「正本」の一種で、太夫の許可をとって出版されている)

小田新之助(井之脇 海)の屋敷に訪れてみると、屋敷では平賀源内(安田顕)が「エレキテル」を修理していました。
(摩擦を利用した静電気の発生装置。オランダで発明され医療器具や宮廷の見世物として使われていました。故障したものを長崎で入手した平賀源内が深川で修復に成功。)

蔦重は馬面太夫との仲介を源内に頼みますが、とりあってくれません。

そこで蔦重は浄瑠璃の元締めである検校に協力を求めます。
瀬川は鳥山検校の妻となり「瀬以(せい)」と呼ばれています。
久しぶりに顔合わせた瀬以と蔦重。
しかし検校からは断られます。

そこで蔦重は、太夫と門之助を偽名で座敷に招き、ずらりそろった女郎とともに迎え、かつての非礼を詫び、宴席を設けました。
太夫は、自分の歌と門之助の舞に涙する彼女たちの姿を見て、吉原の祭り「俄」に出演することを決意しました。

そこに、検校から文が届きます。
太夫の「豊前太夫」の襲名を認めると書かれていました。
さらに太夫から「直伝」の出版許可も得ることができたのです。


【江戸時代の役者の身分】
ドラマでは売れない若手時代の馬面太夫と門之助(いずれも歌舞伎役者)が、身分を偽って吉原の遊郭に遊びに行くエピソードが描かれました。
二人が運悪く上がり込んでしまった店は高級店の若木屋。そこにたまたま門之助の顔を知る客が居合わせたため、二人が役者だと露見してしまいます。怒り心頭の若木屋の主人は、彼らに向かって「嘘ついて上がり込みやがって!役者なんぞに上がられたらウチの畳が総とっかえにならあ!二度と大門くぐんじゃねぇぞ!稲荷町が!」と怒鳴りつけました。その勢いのまま主人は彼らを裸同然で表に放り出し、馬面太夫はすっかり面目を失いました。この出来事がトラウマとなり、劇中で馬面太夫は「吉原嫌い」になったと語られています。
「稲荷町(いなりまち)」とは、歌舞伎の楽屋で最下級の役者を指す業界用語です。「稲荷町」は比喩的に才能のない役者や大根役者への蔑称としても使われました。
役者は特殊な身分で、吉原など公認の遊里(遊郭)では特に蔑視・差別の対象だったため、ドラマの中で若木屋の主人も「稲荷町が!」と罵倒したのでした。
江戸時代の日本では、「四民」という身分制度が存在し、武士・農民・職人・商人がそれぞれの役割を果たしていました。しかし、役者のような職業はこの枠に入らず、「四民の外」として扱われました。


【用語】
正本(せいほん)とは、浄瑠璃や歌舞伎の演目を記した正式な台本のことを指します。現代のシナリオや脚本に相当するもので、当時の観客や関係者が物語を理解し、舞台での演技を補助するためのものでした。

「太夫(たゆう)」とは、浄瑠璃(じょうるり)を語る語り手のこと を指します。浄瑠璃は、日本の伝統的な語り物音楽の一つで、三味線の伴奏に合わせて語られる物語劇です。また遊女のことも太夫という。