1775年(安永4年)です。

吉原は玉菊燈籠で賑わっていました。
( 7月いっぱい行われた吉原の行事で、伝説の名妓・玉菊を偲び盆に提灯を下げたことから始まりました。やがて客寄せのため各見世は派手な燈籠を掲げるようになり、見物客は増加。この期間は女性も吉原の町に入ることができました。)


小田新之助(井之脇 海)うつせみ(小野花梨)に揚げ代を払ってもらうことを蔦重に打ち明け、自分の不甲斐なさにため息をついています。

蔦重は検校と親しくする瀬川に嫉妬心を覚えます。

いね(水野美紀)から、検校から身請け話があると聞いた瀬川は、蔦重の姿がふと思い浮かびます。

駿河屋2階の座敷では、身代金が1000両と聞き、沸き立つ女郎屋の主人たち。
(身代金というと、一般的には人質の解放と引き換えに支払われる金銭のことを指しますが、この時代は人身売買、身の代金という意味で使われています。身請けには身の代金とその女郎の借金を合わせて支払う必要がありました。)

蔦重と外に出た新之助は、うつせみクラスの身請けの相場はいくらなのか尋ねてきました。
蔦重が300両と答えると新之助は落胆します。

蔦重は九郎助稲荷に瀬川を呼び出すと、身請けの話を断ってほしいと切り出しました。
蔦重は俺が幸せにしたいと、頭を下げて頼みます。

瀬川から身請けを断ると言われた松葉屋夫婦は絶句します。
瀬川は断った方が瀬川の値打ちが高まるからと言い訳をしますが信用しません。

松葉屋は間夫(まぶ)ができた考え、監視を始めます。
吉原育ちの蔦重と瀬川は、見張られていることに気づきます。

ついにいねが強硬手段に出て、瀬川にひと晩に5人もの男の相手をさせる嫌がらせをします。
松葉屋は離れに蔦重を連れてきます。
襖の奥から瀬川の喘ぎ声が聞こえてきます。
お前さんはこれを瀬川に年季明けまでずっとやらせるのかい?と言われます。
(1年の間で吉原遊郭が休みになるのは、1月1日の元旦と7月13日の2日間のみ。正月休みとお盆休みの2日だけです。それ以外はずっと客を取らされていました。)

蔦重は通行切手を眺めながら、瀬川との足抜けを思いつきました。
瀬川に蔦重が通行切手が入った本を渡します。
(吉原への女性の出入りは厳しく監視されており、あらかじめ茶屋で通行書となる切手を手に入れておく必要があり、それを門番に見せなければならなかった。)


その前にうつせみと新之助が足抜けをしますが、つかまってしまいます。

この名を背負う意味を改めて考えた瀬川は蔦重に通行手形入りの本を返しました。

正式に瀬川の身請けが決まりました。
身代金は1400両。



【この時代にはやった遊び:投扇興】

忘八たちが興じているのは「投扇興」といって、向かい合った二人が交互に扇子を投げ点数を競う遊びです。べらぼうの時代のころ京都で発祥し、大流行したと言われています。