(ネタバレあり)
ドラマは西暦1006年から1007年になります。。


定澄(赤星昇一郎)は要求事項を直ちに陣定にかけなければ屋敷を焼き払うと迫ります。道長は暴挙は許しがたしとしながらも、審議はすると約束します。

僧たちは大極殿の前にも押し寄せてきました。


まひろは一条天皇(塩野瑛久)のいる清涼殿に避難することを提案します

一条天皇に「父である左大臣が陣頭に立っている。そなたは朕の中宮だ、胸を張っていろ」と言われる彰子(見上愛)。

土御門邸にて、定澄は道長に引き上げる条件を四つ示します。
それを道長ははねつけます。


年が明け1007年になります。
倫子は末っ子の嬉子(後の後冷泉天皇の母)を産みます。
(倫子42歳の時の子供です。倫子は6人の子供を産み、これで打ち止めです。道長は40歳。この時には明子はすでに6人産んでいます。)


道長は、一条天皇から伊周(三浦翔平)の嫡男・道雅(福崎那由他)を蔵人にするよう要求されます。まひろの弟・惟規(高杉真宙)もいれることと引き換えに認めます。
(史実では寛弘4年(1007年) 1月13日に惟規が六位蔵人に任ぜられ、その3日後に道雅が五位蔵人に任ぜられています)


まひろは、彰子から「物語の面白さがわからぬ。帝がどこに惹かれているのか教えて欲しい」と頼まれます。

ある日、一条天皇がまひろを訪れ、
「なぜそなたはあの物語を書こうと思ったのか」と聞かれます。
まひろは、「左大臣様に頼まれた」と正直に伝えます。

一条天皇は、「そなたの物語は朕にまっすぐ語りかけてくる。また来る」と言いますが、まひろは、「中宮様に会いに来てくださいませ!」と心の中で答えます。


寛弘4年(1007年)3月
土御門邸では曲水(ごくすい)の宴が開かれます。
そこで、まひろは彰子に「殿御は皆かわいいものでございます」と言い、帝と話すようさとします。

(ドラマでは、皆が第三帖「空蝉」を読んでいる様子が出ていましたが、
この頃は第五帖「若紫」を執筆しているようです。第1回でまひろが飼っていた雀が逃げてしまって、雀を探しているときに幼い道長と出会いますが、これはそのまま、紫の上と光源氏の出会いのエピソードです)


寛弘4年(1007年)8月
不吉な出来事が続くので、道長は御嶽詣に出かけます。
吉野の金峯山で彰子の懐妊を祈願するため、嫡男・頼通(渡邊圭祐)と源俊賢(本田大輔)を伴い出立したのでした。
(途中興福寺にも寄り、定澄のサポートを受けます。この時の道長の経筒が金峯山で出土していて、今も残っています。)



【道長と興福寺の争いの火種の源頼親】

元々興福寺は藤原氏の氏寺でした。
藤原道長の時代には荘園を巡って対立関係にあったと言われます。
道長は、源頼親を大和国司とし、興福寺の荘園拡大を抑制しようとしていたようです。
源頼親は、寛弘3年(1006年)の春の除目で大和守となります。

源頼親が着任する前から、頼親に仕える当麻為頼と興福寺の間では、土地をめぐってもめ事があったようです。

『御堂関白記』によると、寛弘3年6月、為頼が興福寺領池辺園預を殴打。
これに対し、興福寺の蓮聖が三千人の僧を率いて為頼邸を襲ったとしており、
道長は興福寺側に非があると判断したようです。

ところが実資の『小右記』には、為頼が何らかの事件を起こし、興福寺が事情を問いただそうとすると、為頼は自邸の財物を搬出した上で焼き払い、興福寺の乱行を訴えたとしています。

そのため、寛弘3年7月興福寺別当の定澄が道長のもとを訪れ、「正しい裁定がなされなければ、土御門殿や源頼親邸を焼き払う」と脅すことになります。

興福寺の僧数千人が入京する事態になりますが、結局道長が退去させたようです。

源頼親は藤原保昌に仕えていた清原致信を殺害するなどしており、
道長は『御堂関白記』に頼親を「殺人上手」と記しています。
参考までに、藤原保昌は後に和泉式部を妻にしています。
「光る君へ」の初めのころに登場した散楽一座で義賊の直秀のモデルは藤原保輔とされ、保昌の弟である。

清原致信は清原元輔の子で清少納言の兄です。

さらに頼親の弟の源頼信は河内源氏の祖として、鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系の祖先となっている。



【彰子の女房たち】

宮の宣旨(小林きな子):女房集団の長、醍醐天皇の曽孫
宰相の君(瀬戸さおり):道長の兄・道綱の娘
大納言の君(真下玲奈):道長の妻・倫子の姪
左衛門の内侍(菅野莉央):橘氏の出身 橘隆子
小少将の君(福井夏):道長の妻・倫子の姪
馬中将の君(羽惟):道長の妻、明子の姪
赤染衛門(凰稀かなめ):女流歌人、大隅守・赤染時用の娘。「栄花物語」の作者

そうそうたる高貴なメンバーですが、まひろも倫子とは”はとこ”の関係なのに、そのように扱われていないようです。