(ネタバレあり)
ドラマは西暦994年から995年になります。

まひろの病気も治りました。
実際はあばた顔だったはずです。


平安時代の夫婦は財布が別々だったようです。
通い婚なのであたりまえですが、現在は通い婚でなくても財布が別々の夫婦が多いと聞きます。


斉信とききょう(清少納言)がなにやら意味深な会話をしています。

「深い仲になったからって自分の女みたいに言わないで!」と言われてしまいます。

清少納言は981年頃に藤原斉信の家司橘則光と結婚して、すぐ長男が生まれるが、結婚生活は破綻する。
ただチョメチョメの関係は続き、完全に別れたのは998年頃と言われる。

ききょうは夫の上司と不倫をしていたことになります。


そこへ一条天皇たちが現れます。
道隆が笛を吹き始めますが、まもなくして倒れてしまいます。

安倍晴明に「寿命が尽きようとしています。」と言われてしまいます。

西暦995年の正月、病床の道隆は新たな元号を「長徳」とするよう 帝に勧めます。
内裏では 実資(秋山竜次)らが「長徳」という名前は疫病が長引くと言っています。
実際に995年も京では疫病が猛威を振います。

一方、道兼と道長から引水病(糖尿病)と聞いた帝の母・詮子は、
「次の関白は道兼がいいわ。道兼は好きではないが 、伊周がなるよりはマシだわ」と本人を前にして言い、公卿などへの根回しを進めます。

定子は兄伊周に”内覧”となるよう勧めます。
それはずっと空席になっている関白に準ずる地位です。

二条第では、道隆が弟・道兼に「わが家を頼む」と懇願します。

道隆は一条天皇に、関白を伊周にゆだねることを懇願しますが、一条天皇からはねつけられます。

次第に道隆は正気を失い始め 、定子や一条天皇にまで無体を働くようになり最期の時が来ます。
この頃には道隆も道兼も疫病にかかっていたという説もあります。

道隆は長徳元年4月6日出家し、10日死去。享年43。 
長徳元年4月10日はユリウス暦では995年5月12日となり、ほぼ今頃の季節となります。

藤原道隆の妻高階貴子の句 百人一首54番 
「忘れじの ゆく末までは かたければ 今日をかぎりの いのちともがな」



【史実におけるその後の内覧】
伊周が道隆が回復するまでの期間限定で内覧となった。だが、道隆は他界して伊周の内覧も停止されることになる。
その後、道隆の後を継いだ弟の藤原道兼も他界して、道長と伊周が後継関白を争うことになるが、一条天皇は道長を内覧として決定を先送りにする。
道長も太政官を政治的基盤として維持するために関白に就任せず、その後約20年間「内覧左大臣」として最高権力の地位に座り、摂関不在状態が続く。
道長が摂関の地位に初めて就いたのは1016年で、それからわずか1年程で息子の頼通に譲る。頼通はその後50年の長きにわたり関白を務める。


【平安時代も不倫は罪】
人妻に密かに通う行為を「密か事」といって、『源氏物語』でも密か事にふけるカップルが多く登場する。
柏木は光源氏の正妻女三宮と密通し、そのことを光源氏に知られてしまい、恐怖と逢えない苦悩から死んだ。光源氏も柏木以上に人妻との姦通事件をおこす。父桐壺帝の妻であり義母でもある藤壺宮を手始めに、空蝉・朧月夜尚侍などとチョメチョメ。
平安時代は律令制度であるから、姦通罪も規定されている。二年から二年半の徒刑となるが、問題はその適用にある。事実上一夫多妻であり、結婚というものの定義もあやふやのため、事実上機能しなかった。離婚も夫が2年以上通ってこなければ成立するというようなあいまいだった。
厳密に法律が機能していれば、貴族のほとんどが検挙され、『源氏物語』も成立していなかったと思われる。

 

「光る君へ」の時代を考察する(第十六回)