今日は松尾芭蕉の命日です。 新暦における・・
元禄7年10月12日(1694年11月28日)に大阪で亡くなる。享年51歳。

最近東北旅行などで芭蕉にふれる環境が多かった。

亡くなる4日前に辞世の句とされる?下記の句を詠んでいる。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

不思議なのは、上五を字余りにして口語体で読んでいること。
我々凡人だと「旅に病み」と五音に収めてしまうところ。
各務支考は、「芭蕉翁追善之日記」に、元の句は「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」だったことを記している。
本によっては「病んで」だったり「病で」だったり、廻るも漢字だったりかなだったりしますが、芭蕉はどう書きたかったのでしょうか?
実際は弟子に口述筆記させているので、わからないというのが答えですかね?
芭蕉本人はまだ死ぬつもりではなかったようなので、辞世の句とも思えませんが・・
この句を詠んだ2日後に遺書を書いている。


もう一つ注目したいのは、亡くなる13日前に読んだ名句
「秋深き隣は何をする人ぞ」
なぜ「秋深き」と連体形なのか?
つながる体言がないので、日本語としておかしい。
1年前にある美人さんが主のブログでこれを話題にしたところ、
この句は倒置法を用いていると教えていただいた。
散文的に書くと、「隣は何をする人ぞ秋深き」となる。
これだと「ぞ」+連体形で日本語になっている。

亡くなったあとに門人がまとめた句集では「秋深し」と直されている。
やはりふつうはおかしい、あるいは間違えたと思う。

ただこれには諸説あるようだ。
加藤楸邨先生は「秋深き隣」とつながっていると主張されている。
日本語として無理があるようにも思うが、有名な俳人が言うとそれもあるのかなと思ってしまう。

また室町時代以降に用言の終止形と連体形の区別がなくなってきていたといわれ。これが原因かも?

正解は芭蕉本人にしかわからない。

余談ですが、
係助詞の「ぞ・なむ・や・か」が使われると、文末の結びの語の活用形が「連体形」に、「こそ」の場合は「已然形」に変わるというルール。
このルールを発見したのは本居宣長と言われている。逆に言えば、本居宣長がこのルールを発見するまでは、古典文学を正しく解釈できていなかったということ。

大河ドラマはあのひどい「どうする家康」から「光る君へ」に代わる。
通称「光源氏」と呼んでいるが、原文では「光る君」と書かれている。本名は不明。
源氏物語など古典文学にまた触れてみたいものだ。