視聴率14.8%、待ちきれずにBSで視聴した人が多かったのでは・・
鎌倉殿の13人の最終話のタイトルは「報いの時」です。
西暦1221年6月から1224年7月までの話です。

ワールドカップの決勝戦に匹敵するくらいの衝撃の最終回です。
新幹線が止まっており、見られない人が多数いたことが残念。
三谷ワールド全開です。これ以上無いすばらしい最終話でした。
史実とは異なりますが、納得のいくラストシーンでした。

最終回は、後鳥羽上皇に対し鎌倉が徹底抗戦するところからはじまります。

後鳥羽上皇が日本全国に義時追討の院宣をだして、北条討伐を命じます。鎌倉は、政子を中心に徹底抗戦することを決めました。

承久3年5月22日(西暦1221年6月13日)、泰時は、わずか17人の兵を引き連れて京へと向かいました。その途中で、北条を助けようと御家人たちがどんどん集まります。

最終的には、19万人にも兵が膨れ上がっていました。

後鳥羽上皇の側近・藤原秀康が率いた1万の官軍は、京に入れないように宇治川で戦いますが兵力の差は明らかでした。

義時は、後鳥羽上皇を隠岐島に流罪とします。そして、直系の親族たちを各地に流罪にしました。天皇も後鳥羽上皇の甥に変更しました。

また、泰時と時房を京に滞在させて、朝廷の動きの監視と問題への対処に当たらせました。

貞応3年(1224)6月、京から鎌倉へ泰時と時房が戻ってきて義時と話をしている時です。義時は、突然にめまいをして倒れてしまいます。

のえ(菊地凛子)が薬草を勧めます。
「よく効きますから、これをお飲みください。」

一方、東国の御家人に西国の所領があたえられました。しかし、東と西のこれまで行っていた習慣違いから西側諸国の者たちが反発をしていました。
「東も西も関係なく、公平な決まりが必要です。」
泰時の考えは認められ、「御成敗式目」に武士が守るべきルールを書きました。

義時は、運慶に作らせた自分に似た仏像が完成します。しかし、その仏像には邪気の顔を描かれていました。
「なんだこれは?」
義時は怒った瞬間に再び、めまいでフラフラと倒れてしまいます。

のえは三浦義村と組んで義時を毒殺しようとします。
義時はのえに「出て行け」と言い、離縁を申し渡します。
(『吾妻鏡』では義時の没後まもなく伊賀氏の変と呼ばれる政変が起こり、後妻の伊賀の方や一族の伊賀氏、一条実雅が排除される事態が発生しているが、これは政子の一方的な粛正だったとの見方が大勢)

のえは毒薬を手に入れたのは三浦義村だと白状します。

義時と三浦義村が酒を飲んでいます。
三浦義村は今までの思いを吐露します。

最後は義時は三浦に泰時の後ろ盾を頼みます。
(きのこも回収されました)

義時、政子兄弟だけの時間が流れます。
政子「あなたは、上皇様を島流しにした大悪人です。私は、身内を追いやって尼将軍に上り詰めた悪女。頼朝さまから鎌倉を受け継ぎ、次代につないだ。これからは、争いのない世が来るわ。」
義時「それにしても、血が流れすぎました。頼朝様が亡くなってから、何人が死んでいったか。梶原殿、全成殿、比企殿、仁田殿、頼家様、畠山重忠、稲毛殿、平賀殿、和田殿、仲章殿、実朝様、公暁殿、時元殿。これだけで13。そりゃ、顔も悪くなる」
(13人も回収されました)
義時は嘘をついていた頼家の死の真相を政子に打ち明けた。

政子と話をしているうちに、義時が苦しみ出し、薬をとってくれるように政子に頼みます。政子はその薬を捨ててしまいます。義時は意識が遠くなっていきます。
政子「私たち長く生きすぎたのかもしれない。」
義時「私はまだ死ねない。」
政子「ご苦労様でした。小四郎。」
義時の最後が近づく中、政子をじっと見つめて義時は息を引き取りました。
享年62歳。成した子供は15人。
まさしく「報いの時」であった。
(『吾妻鏡』では脚気と暑気あたりのためで、かねてより体調不良に苦しんでいたとされる)


鎌倉時代源氏は3代で終わります。その後の血筋は平家(北条)となります。
室町時代は足利氏なので、正統な源氏になります。
織田信長は明確な平家の証拠はありませんが、平家を名乗っています。
秀吉は、足利義昭の養子となって征夷大将軍となろうとしたが断られ、藤原氏の養子となったため関白となります。
家康も源氏にこだわり、無理矢理源氏を名乗り、征夷大将軍となります。

過去征夷大将軍は源氏、摂政・関白は藤原氏となっていますが、
織田信長に対して朝廷は関白でも征夷大将軍でも太政大臣でも所望のものに就かせるとした記録があるので、朝廷側にはそのこだわりはなかったようです。

「鎌倉殿の13人」の最終話の冒頭いきなり家康(松本潤)が『吾妻鏡』を読んでいました。家康の愛読書は『吾妻鏡』というのは有名な話ですが、『吾妻鏡』は漢文で書かれています。家康は漢文を読めなかったと伝わっています。書き下し文にでもしたものを読んでいたのでしょうか?

「どうする家康」の第1話 

家康が駿府で人質になっているところからスタートします。
どうする家康の第1話のタイトルは「どうする桶狭間」です。

鎧武者たちが大高城の中で、殿を探していました。その殿はというと、城の外堀に隠れていました。頬かぶりをした殿は、隠れていたところから走り出しました。

雷のなる中、全力で駆けだしたのですが思いっきりこけてしまいます。そのため、頬かぶりもとれてしまいます。

大きな声で叫ぶ男こそ、後の徳川家康です。徳川幕府を開く、この男がなぜ走って大高城を出て、叫んでいたのかは4年前にさかのぼります。

松平元康がまだ、次郎三郎元信と名乗っていたころのことです。松平家9代当主の松平次郎三郎元信は、駿河の今川義元(野村萬斎)のところで人質生活を送っていました。

元信は、今川家の嫡男・今川氏真(溝端淳平)と手合わせをする日にもかかわらず、何も準備していなかったので、石川数正らは慌ててやってきたのです。

手合わせは、甲冑姿での剣術の実践稽古です。次郎三郎に比べて4歳上の氏真は、堂々とした佇まいをしています。

それを武家の姫たちも見ていました。姫の中心格である鵜殿長照(野間口徹)の妹・お田鶴(関水渚)は、氏真を見て言います。

そして、実践稽古がはじまりました。はじまると、すぐに次郎三郎はやられてしまいます。最初に手首を打たれ、次に膝をやられてました。

姫たちの熱い視線は、氏真に集まります。

今川氏真「次郎三郎、いつまでもダメじゃのう。もう一本じゃ。

松平元康「私など若君様に、かなうものではありません。これ以上は、ご勘弁ください。」

今川氏真「大将は、やすやす首をとられてどうする。もう一本じゃ。」

しかし、それを今川義元がストップしました。

今川義元が去った後に姫たちもその場からいなくなりました。しかし、その場に残った姫がいました。

関口氏純(渡部篤郎)の娘・瀬名(有村架純)です。瀬名は次郎三郎の方を気にしており、氏真は怪訝な顔をします。

こんな感じで始まります。

どんなドラマになるのでしょうか?