私たちが救われるために、「しもべ」であるメシヤ(キリスト)は、何をしてくださったのか…。その様子が、7節以降で告げられています。
*7~9節を読みましょう。
ここでは、贖いを成し遂げられるキリストの従順な姿が描かれています。
キリストご自身は罪の無いお方ですが、私たちの罪をすべて背負い、私たち自身となって罪の刑罰を受けられるため、私たちのために「痛めつけられ・・・苦しんだ」のです。
違法な裁判による有罪判決が下されても、キリストを痛めつける暴行は止みませんでした。十字架刑が執行される刑場までの道のりも、暴言と暴行を加えようとする人々であふれ、罵りと嘲笑を受けても、言い返したり、自己弁護することは一切なく、贖いを成し遂げるためにまっすぐに進み行かれたのです。
「十字架に付けろ!」と、死刑を要求し、沿道で罵っていた人たちは、なぜキリストが何をされても何を言われても、ただ黙って“死”に向かわれたのか知りませんでしたが、聖書は語ります。「彼」(=キリスト)は、すべての人の「そむきの罪のために打たれ、生けるものの地から絶たれた」と。
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ」とは、キリストが強盗犯らと共に十字架刑に処せられることの預言で、「富む者とともに葬られた」とは、キリストはアリマタヤのヨセフという人の所有する墓に葬られることの預言です。
*10節を読みましょう。
最後の段落は、キリストの贖いの死に示された「主のみこころ」について告げられています。
ひたむきに十字架に向かわれたキリストが求めておられたのは、これらの「主のみこころ」が成し遂げられること、なのです。
まず、キリストの十字架の死は「罪過のためのいけにえ」だと言われています。「罪過のためのいけにえ」については、以下の様な規定があります。
レビ5:18「その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。」
「いけにえ」とは、「傷のない雄羊」でなければなりません。病気やケガ、欠陥があるものは「いけにえ」として受け入れられないのです。これは、やがて罪の贖いをしてくださるキリストの型です。罪人が罪人の身代わりになることはできません。自分自身の罪をどうすることもできないのですから。罪のない方だけが、罪人の身代わりとなって贖いを成し遂げることができるのです。それはイエス・キリストただおひとりなのです。
使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人には与えられていないからです。」
Ⅰテモテ2:5「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」
マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
メシヤ(キリスト)が、「ご自分のいのちを・・・いけにえ」としてささげられた結果、「末長く、子孫を見る」とあります。これは、贖いの死によって罪が赦されるだけでなく、“いのち”が生み出されることを示しています。
ヨハネ12:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな身を結びます。」
そして、この“いのち”は“新しいいのち”です。
ヨハネ6:47「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
私たち罪人が、キリストの身代わりとなって死なれ、そのことによって“いのち”を得る(救いを得る)ことは「主のみこころ」であると告げています。
Ⅰテモテ2:4「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
*11節を読みましょう。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」
私たちの身代わりとして十字架に架かり死なれるという苦しみは、壮絶なものでしたが、その苦しみはキリストにとって嫌悪するものではなく、むしろ「満足」であると言われています。なぜでしょう? その理由が続けて語られています。
「その知識によって多くの人を義とし」
「その知識」とは、キリスト(救い主)についての知識のことで、キリストの贖いによって救いを得ること(福音)を指します。「義と(する)」とは、神の目に罪の無い者と見なされること、すべての罪が赦されて、神との関係が回復することを意味します。なぜ、そんなことが叶うのでしょう?それは、「彼ら(=私たち)の咎を彼(=キリスト)がになう」からです。
*12節を読みましょう。
「多くの人々を彼に分け与え、彼は、強者たちを分捕り物としてわかちとる」とは、キリストが贖いを成し遂げられただけでなく、勝者となられたことを示します。
キリストの身代わりの死は、客観的には敗北のように見えますが、実際は勝利であると告げて“第四のしもべの歌”を締めくくっています。
「彼は自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた」
キリストは、「そむいた人たち」=強盗罪で死刑判決をうけた犯罪人と共に処刑されました。強盗と同罪、もしくはそれ以上の犯罪を犯した人のように扱われ、極刑の中でも最も重い刑を執行されたのです。しかし、それは“私”の姿だったのです。
「そむいた人たちのためにとりなしをする」
それだけではなく、十字架に架かられる以前から、十字架上で苦しみ死に至る寸前まで、キリストは、ご自身を「そむいた人たち」=罵り嘲る者たちのために「とりなし」祈られました。
ルカ23:34「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」
「そむいた人」それこそが、“私”の姿なのです。しかし、実際に罪人として扱われ、死なれたのはキリストでした。そして、“私”が救われることを願う前から、とりなし祈ってくださっていました。それにより、救いを得たのです。
キリストは今も「とりなし」続けておられます。それは、今日、この瞬間も、一人の罪人が悔い改めて救われることを待ち望んでおられるからなのです。
ローマ8:34「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
へブル7:25「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
*では、53:7~12を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。