イザヤ書51章#①(v1~8) | 聖書が読みたくなる学び

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*1節を読みましょう。

 「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴」とは、イスラエル民族の起源を示す表現です。イスラエル(ユダ)が回復するためには起源に注目することも大切なプロセスでした。このように“初め”に戻ることは、どの人にとっても重要なことです。

黙示録2:4~5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」

*2節を読みましょう。

 ここから、イスラエルの起源の要約が語られます。

「父アブラハムとあなたがたを産んだサラ」

 アブラハムとサラは、ウル(メソポタミア)の出身で、異教世界で生まれ育った人物です。そのような意味では、神から遠く離れた存在だったのですが、主が彼を召し、彼はその召しに従った故に、信仰が与えられたのです。

「わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやした」

 アブラハムは主なる神と契約を結んだ最初の人でもあります。そして、その約束の内容は、土地と子孫を得るというものです。ここでは特に子孫の約束が取り上げられ「わたしが」と、アブラハムの意志や計画によるものではなく、全く主の御力によって与えられ、増やされたことを告げています。というのも、アブラハムが召しを受けた時は75歳(サラは65歳)で既に高齢であり、実際に約束の子(イサク)が与えられたのは、アブラハムが100歳(サラは90歳)の時でした。既に高齢でありながら、さらに25年も経過してから与えられたのは、人間の計画や意欲によってではなく、神の計画が神によって成し遂げられたことを人間たちが知って信じるためです。

 この時のアブラハムの信仰について、聖書は次のように語っています。

ローマ4:18「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」

同21~22節「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

 ユダの民が、神の民であることに誇りを持つなら、アブラハムのように「望みえないときに望みを抱いて信じる」信仰を持たなければならないのです。なぜなら、これから「望みえないとき」(=バビロン捕囚)が来るからです。

*3節を読みましょう。

 この先、エルサレムは「廃墟」となるのです。エルサレムは、もともとはエブス人の要塞都市でした。あまりにも堅固であったため、誰も攻略することができなかったのですが、ダビデが打ち破り、占領することができたのです。それ故、イスラエル占領下においても難攻不落の象徴的存在だったのです。そのような都が「廃墟」となるなんて、とても信じられませんでした。しかし、その“信じられない”ことが現実になったのです。“信じられない”ことだからこそ、ユダの民は絶望したのです。エルサレムの町だけでなく、ユダの民の心も「廃墟」となったのです。

「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて」

 ユダの民は、何度語られても信じようとしませんでした。そのような“警告を無視し軽んじた民”に対しても、主は「慰め」てくださる、と約束しておられます。この「慰め」とは、“回復する”ことを意味します。

 目の前は絶望的な光景が広がっていても、みことばは希望を告げているので、視点を変えるだけで「望みえないときに望みを抱く」ことができるのです。このような信仰こそ、主が求めておられる心なのです。

 では、なぜそこまでしてイスラエルを回復させてくださるのか? そのことについて4節から語られています。

*4~5節を読みましょう。

 それは、「国々の民の光とする」ためです。つまり、異邦人へ主の救い(福音)を告げ知らせるためです。そのためには、「わたし」(=主なる神)に「心を留め、耳を傾け」、る必要があります。なぜなら、救いは人の考えたものではなく、主から出るものだからです。

「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」

 「義」「救い」も同じ意味で、救いの成就が近い、あるいは、救い主の到来が近いという意味です。主なる神は、歴史の初めと終わりを定められておられ、すべてを救いのご計画を中心に動かされています。その救いの計画は、イスラエルだけのものではなく、全人類のためのものです。

「島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む」

 イスラエルは、異邦人は汚れた民であり、決して救われることが無いと偏見の思いを持っていましたが、異邦諸国の人々の中にも、救いを求める人々、そして主を知り、主を信じる信仰を持つ人々が起こされることが告げられています。

*6節を読みましょう。

 「天」「地」、どちらもいつかは朽ち果てる(永続するものではない)が、決して失われることがなく永遠に続くものがある。それは「わたしの救い / わたしの義」である、と告げられます。だからこそ、みことば(主の約束)に目を留め、希望を置くべきなのです。

マタイ24:35「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

*7~8節を読みましょう。

 「義を知る者、心のわたしのおしえを持つ民」とは、イスラエルの“残りの者”と呼ばれる真の信仰者のことです。彼らに対し、「人」からの言動を「恐れるな」と励ましておられます。ここでの「そしり / ののしり」とは、信仰者が「わたしのおしえ」である“罪の悔い改めと救いの招き”を人々に伝える時、迫害や脅迫などの妨害行為を受けることを示しています。多くの人が信じようとしないばかりか、強い拒絶反応を示す中で“みことば”を語り伝えることはくじけそうになるのです。しかし、それをやめてはいけない。語り続けなさいと、主は言われます。なぜなら、主ご自身が迫害者に対して立ち向かい、彼らを滅ぼされるからです。最後まで残るのは“悪”の力ではなく、神の「義」「救い」なのです。

 

*では、51:1~8を読みましょう。 

   ・・・最後にお祈りしましょう。