10章(5節以降)では、アッシリヤに対する御告げが記されています。
*5~6節を読みましょう。
「わたしの怒りの杖。…わたしの憤りのむち」
イザヤの時代、最も勢いのある国はアッシリヤでした。アッシリヤは北イスラエルの北に位置し、異邦人の国であり、異教徒でもありましたが、主なる神は、北イスラエルを打つためにアッシリヤを用いられたのです。それは、北イスラエルが罪を認めず、悔い改めもしなかったことに対する懲らしめを与えるために、神の道具として用いられたのです。
*7節を読みましょう。
「しかし、彼自身はそうとは思わず」
「しかし」とあるように、アッシリヤは “神の道具” としての自覚はありませんでした。むしろ、思い上がって高ぶり、主が許容しておられることを越えてやりすぎてしまったのです。
Ⅱ列王記18:25「今、私がこの所を滅ぼすために上ってきたのは、主をさしおいてのことだろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ」
上記は、アッシリヤの将軍ラブ・シャケが、エルサレムを包囲した時に嘲りながら言い放った暴言です。
ちなみに、主がアッシリヤに許容されたのは「物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる」(6節)というところまでです。しかし、アッシリヤは「滅ぼすこと」を求め、強行しようとしたのです。
*8~11節を読みましょう。
「私の高官たちはみな、王ではないか」とは、これまで征服してきた国の王たちを配下においている、と言っています。
「サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか」
さらに、征服してきた国々の神々は、その国の民を救えなかったこと、つまり、常にアッシリヤが勝利してきたことを述べて、イスラエルとユダも同様だろうと罵りました。
Ⅱ列王記18:33~35「国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパでの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナや岩の神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」
Ⅱ歴代誌32:17~19「彼は手紙を書いて、イスラエルの神、主をそしり、主に逆らって言った。『私の手から自分たちの民を救い出せなかった地の国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出せない。…このように、彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々についてと同じように、語ったのである。』」
イスラエルとユダが襲われた理由は、彼ら自身の罪のためでした。であるならば、アッシリヤも自身の罪を悔い改めないならば、同じようにさばきを受けるのですが…、そのような罪の自覚やへりくだりというものはなく、むしろ、自身がさばき主であるかのように振舞ったのです。
*12~14節を読みましょう。
アッシリヤの高慢がどれほどのものであったかを記している箇所ですが、ここで特徴的なのは「私」ということばが多用されていることです。これは、アッシリヤの王がすべてを自分の能力や力の賜物であるとし、すべてを自分の手柄として誇り高ぶっていたことを示しています。
*15節を読みましょう。
アッシリヤは、北イスラエルを懲らしめるために用いられた神の道具に過ぎないのに、分を越えた行動と高ぶりによって自らもさばきを受ける身となってしまいました。そのことを、道具と使用する人との関係にたとえて教えておられます。
職人が良い仕事をすることができるのは、道具の優劣ではなく、職人の技術の有無によります。まして、うまく仕事ができたからと言って、道具が職人に対して誇るなんてことがあれば、おかしなことです。
*16節を読みましょう。
「それゆえ」と、高ぶった故に、アッシリヤにさばきがくだされると告げられます。
「最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り」
これは、体力自慢の屈強な人がやせ衰える様を描いていますが、文字通りの意味よりも、アッシリヤが内部から衰退していくことを示していると思われます。
「火が燃えるように、それを燃やしてしまう」
これは、戦火による被害を描いており、先ほどの内部からの衰退だけでなく、外部からの攻撃によって滅びることを示しています。そして、これらの滅びは「イスラエルの光・・・聖なる方」によってもたらされるので、決して免れることはできないのです。
「燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす」
「おどろといばら」とは、アッシリヤを指し、彼らの滅びは「一日のうちに」起こると言われています。当時の人たちにとっては、にわかに信じ難い宣告だったと思いますが、この文字通りのことがヒゼキヤ王の時代に起きたのです。
Ⅱ列王記19:35「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」
*20~23節を読みましょう。
「その日」とは、アッシリヤがさばかれる日のことです。その時、イスラエルに起きることが記されています。それは、信仰の回復です。
「もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる」
今までのイスラエルは、神ではなく諸外国に頼っていました。しかし、諸外国はイスラエルを救ってくれるのではなく、実際は「自分を打つ者」、つまり、利用するだけ利用して、後には支配下におこうとしているのです。本当に自分たちを救い、保護してくださるのは主なる神だけであると、イスラエルは知るのです。しかし、それに気づかされ、「力ある神に立ち返る」のは「イスラエルの残りの者 / ヤコブの家にのがれた者」に限ります。その厳しさが22節に記されています。
*24~25節を読みましょう。
さばきの厳しさを語った後、だからこそ今するべきことは「アッシリヤを恐れる」ことをやめて、主に立ち返り、「残りの者」となるよう決心を迫っています。
「もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまう」とは、アッシリヤへのさばきが間近に迫っていることを告げています。
*26~27節を読みましょう。
「オレブの岩でミデヤンを打ったとき」とは、士師記に記されている出来事です。
士師記7:25「また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。」
また、「杖を海にかざして、エジプトにしたように」とは、出エジプトの出来事です。
出エジプト14:21「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」
上記の二つの出来事に共通しているのは、出エ14:10「主に向かって叫んだ」、士師6:7「主に叫び求めた」ところから、主による救出が始まったことです。イザヤを通して語られた救いの約束も、主に立ち返り、主に助けを求めるところから始まるのです。そしてその救いは、27節にあるように、完全な解放をもたらすのです。
*28~32節を読みましょう。
ここでは、「アヤテ」という北イスラエルと南ユダの国境付近の町に侵入したアッシリヤが、「ミグロン」⇒「ミクマス」と南下して「エルサレム」に近づいていっている様子を描いています。
そして、「エルサレム」に隣接する「ノブ」の地から「エルサレム」を一望し、勝利を確信して「こぶしを振り上げ」ています。 しかし、その高ぶりの絶頂期に、主の手は振り下ろされるのです。
*33~34節を読みましょう。
「切り払う/切り落とされ/低くされる/切り落とし/倒される」と、破壊用語が連投され、徹底的なさばきが行われることが告げられます。
では、10章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。