イザヤ書9章 #1(v1~7) | 聖書が読みたくなる学び

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 7~8章で語られてきた救い(回復)の約束を成し遂げる存在が9章で明らかにされます。

*1節を読みましょう。

 8章の最後は、20節「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けが無い」という警告が告げられ、「夜明けが無い」状態がいかに深刻なものであるかが記されていましたが、9章では一転し「しかし…光栄を受けた」と、「おしえとあかしに尋ね(た)」者に対する回復(救い)の約束が告げられます。

「先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けた」

 「先」とは、“昔、かつて” の意味で、「ゼブルンの地とナフタリの地」とは北イスラエルの北部に位置していた地域で後に “ガリラヤ” と呼ばれるようになった地域です。ここは、真っ先にアッシリヤの侵攻にあいました。なので「はずかしめ」とはアッシリヤ侵攻を意味します。

「後には・・・異邦人のガリラヤは光栄を受けた」

 「後」とは、“将来” の意味で、今後起きることを示しています。「異邦人のガリラヤ」と表現されているのは、北イスラエルがアッシリヤの侵攻を受けるだけでなく、植民地化されて “異国” のようになることを示しています。

Ⅱ列王記17:6「ホセアの時代に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し…」

同 24節「アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住まわせた。」

 しかし、そのような屈辱的な仕打ちを受けても、「光栄」を受けると言われています。これは、後にガリラヤに福音が語られること、救い主が到来することを示し、このことは約700年後に成就しました。

マタイ4:12~17(抜粋)「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ち退かれた。…ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。…この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」

 上記のマタイ4:15~16で引用されているのが本章2節です。

*2節を読みましょう。

 「やみの中を歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは、神との関係が断たれた罪人の姿を現わしています。そのような者たちが「大きな光を見」「光」に照らされると言われています。その「光」とは、神との関係の回復(=罪の赦しと救い)を与える救い主の到来であり、その良い知らせ(=福音)です。

*3~5節を読みましょう。

 その回復(救い)がどのようなものであるかが記されています。敗北による人口減少と、略奪による貧困に苦しめられた民が、増やされ、豊かな恵みを分かち合って喜ぶ、立場と状況の逆転が起こる様子が描かれています。

「ミデヤンの日になされたように」とは、士師記7章の出来事を指していると思われます。

 士師記には繰り返し出て来る表現があります。

士師17:6「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

 このことばが示す通り、当時のイスラエルはみことばに従って正しく生きることよりも、自分の思いに従って生きており、神のみこころからも外れた生き方をしていたのです。そんなイスラエルの民に罪を示し、悔い改めと回復へ導くために、神はミデヤン人を通して懲らしめられたのです。イスラエルとユダがアッシリヤやバビロンなどによって苦しめられる構図と同じことが、過去にもあったのです。

士師6:1、3「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した…イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人・・・がやって来て、イスラエル人を襲った。」

 「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった」(士師6:10)と言われているように、ミデヤンに苦しめられる原因を作ったのはイスラエル自身なのですが、彼らが「主に叫び求めた」とき、主なる神はイスラエルを救ってくださったのです。その時、用いられたのが臆病で小心者のギデオンでした。彼は、テストに合格した300人を連れて、主を礼拝した後、角笛とからつぼに入れたたいまつを手にしてミデヤンの陣営に向かい、不思議な方法で“告げられた通り”勝利を得たのです。詳しくは士師記7~8章を参照ください。

士師記8:28「こうしてミデヤン人はイスラエル人によって屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。」

 この時と同じことを主は成してくださると約束してくださっているのが「ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ」という表現の示す意味です。

 5節は、戦場で使われた武具が焼却される様子を描いていますが、これは戦いが終わり、平和が訪れる(もう戦うことがなくなる)ことを示しています。

*6~7節を読みましょう。

 その勝利と平和をもたらすのは、人々の努力や知恵ではなく、神から送られる救世主によることが明かされます。大事なところなので、詳しくみていきましょう。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」

 その救い主は、人の姿をとって来られます。その際、「みどりご」として「生まれる」ことにより、私たちと同じように人生を歩まれるのです。これは、罪人に寄り添い、近く歩まれる「インマヌエル」の姿を示します。

「ひとりの男の子が、私たちに与えられる」

 ここでの「男の子」は、本来 “ひとり子” という意味。「与えられる」とは、天から与えられることを示し、救い主が “神のひとり子”(=御子なる神)であることを示しています。

「主権はその肩にあり」

 その救い主は、統べ治める方であることを示しています。しかし、救い主の地上での歩みは「みどりご」の状態から始まるので、彼が統治するまでには時間がかかることも示しています。これは、人間の側に、苦しみに対する忍耐と、必ず実現すると信じて待ち望む信仰とを求めた約束です。

「不思議な助言者、力ある神」

 「不思議」とは “驚異” の意味で、救い主が人間の理解を越えた方であることを示しています。…たしかに、イエスさまの出生の時の様子から十字架の死と復活に至るまで、人間の理解を越えた驚くべきことの連続ですよね。ただ、ここでは「助言者」とあり、救い主の語ることばが、ひとりひとりに的確で心を探られる…など驚異となることを示しています。福音書には、イエスさまの語られることに驚く人々の様子がしばしば登場しますね。

 そして、その語られたことばを実行する力をもつ方であることを「力ある神」という表現で示しています。

「永遠の父、平和の君」

 「父」として、私たちを養い育て、教え懲らしめ、決して孤児としない方である、という意味もあると思いますが、もっと重要なのは “父を表す・父を証しする” 方であるという意味です。

 イエスさまは「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われましたが、そのことばこそ「永遠の父」の成就なのです。

 「平和の君」とは、救い主は平和をもたらすために来られることを示します。その平和とは、“神と罪人との和解” と “罪人同士の和解” です。

エペソ2:14~15「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

「ダビデの王座に着いて、その王国を治め」

 これはダビデに与えられた契約の成就をする者であることを示しています。

Ⅱサムエル7:11~13「主はあなたのために一つの家を造る…あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」

「さばきと正義によってこれを堅く立て」

 その救い主が治める「王国」「さばきと正義によって」立てられると言われています。これは、「王国」の到来の前に「さばき」があることを示しています。

「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」

 この約束の成就は、人間の都合で早めたり遅らせたり変更したり…などと、コントロールできるものではないことを示しています。であるからこそ、みことばを正しく受け取り、それに聞き従うことが求められているのです。

 

では、9:1~7を読みましょう。 

   ・・・最後にお祈りしましょう。