イザヤ書4章 | 聖書が読みたくなる学び

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いのちのパンに添えるコーヒーのような
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*1~3節を読みましょう。

 「その日」とは、3:18の「その日」を受けているのでバビロン捕囚のことを指していますが、終末の預言をも重ねて語られている場面なので、バビロン捕囚のことだけを語っているわけではありません。特に2節は、終末の出来事に重点を置いて語られています。

「七人の女がひとりの男にすがりついて言う」

 3章の最後で、男たちが「剣に倒れ・・・戦いに倒れ」たために男女比のバランスが崩れ、一夫多妻婚でもしなければ、多くの女性は結婚できないまま残りの生涯を過ごすことに成る…、そのような焦りから、女たちが必死になって結婚相手を探している様子を描いています。実際、バビロン捕囚時にはこのような状況になりました。

 そして、女たちの必死さが現れているのが次の表現です。

「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。」

 女たちは結婚してほしいあまりに、自分に不利な条件を付けて安売りするような形で求婚したのです。

 「自分たちの」とは、“自分で用意した” という意味で、要するに「あなたに扶養の負担はかけません。衣食はすべて自分でなんとかしますから入籍だけしてください」と、自分の生活は自己解決することを約束したことばなのです。

 では、何を求めて求婚しているのでしょう?

「私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください」

 一言で言えば「恥をかきたくない」ということです。

 イスラエルにとって、部族の一員であることと、先祖から引き継いできた土地を守っていくことは重要な意味を持っていました。しかし、女子は父の名(家系)や土地を継ぐことができないというのが一般的でした。

 ※このようなケースが取り扱われている場面が民数記にあります ⇨ 参考)民数記27:1~11

 そのような意味では、未婚の女子は継承の問題で名が断たれてしまうようなことになれば、部族の中で “恥” を受けることになるので、それを避けたかったのが一つ目。

 もう一つは、未婚や不妊は当時の社会において “祝福されていない” と見なされていたので、そのような “恥” を避けたい思いがあったのだと思います。

 これらの思いは、当時の人々が外面的な部分(世間体や体裁)を気にしていたこと、特に、イスラエル民族に属していることが神の祝福を受ける手段と勘違いしていたことを表しています。

 形だけの礼拝や儀式をすることで自己満足し、実際的な問題に対しては、神ではなく “見えるもの” に頼って解決や安心を得ようとしていた彼らの行動パターンに、これらの思いが現れています。

*2節を読みましょう。

 この「主の若枝」とは、キリストのことを指しています。「若枝」とは、もともとは “生え出て来る” という意味で、切り株や地に残った根っこなどの木そのものの形が無いような部分から “生え出て来る” 枝のことです。

 バビロン捕囚直前には、彼らの誇りだった城壁と神殿は崩され、荒廃した光景が広がっていました。そんな いのちが無い、滅ぼし尽くされてしまったようなエルサレム・ユダの地に、ひとつの枝が生え出るというのです。それは何にも依存しない(自存する) “いのち” の登場であり、人を生かす “いのち” の登場、それがキリストの姿なのです。

 そして、1節での「7人の女」が すがるべき「ひとりの男」「7人の女」の恥を除く「ひとりの男」はキリストである、とのメッセージでもあるのです。このことは53~54章で詳しく語られます。

イザヤ54:4~5「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。」

 バビロン捕囚となった民は、やがてエルサレムに帰還し、崩された城壁と神殿を再建し、国家をも再建するという回復の約束が語られていますが、それが本当の回復ではありません。本当の回復、つまり、イスラエルが真の神の民として使命に生きるのは終末の時代なのです。

*3節を読みましょう。

 ここからは、さばきの目的について語られています。さばき = 刑罰 と捉えがちですが、神さまは滅ぼすためではなく、神の民として回復させるという目的をもって “さばき” を行うことを告げられます。

 滅ぼすことが目的ではないので、いつの時代にも「のがれた者」(2節)、「残された者 / 残った者」がいます。これらの人々は “バビロンに連れて行かれなかった人” ということではなく、信仰を守り通す人のことです。神さまは信仰を継承することを求めておられるのです。どんなに社会が秩序を失っても、必ず信仰者は存在し、その信仰は守られるのです。そして、そのような人々の証しを、他の人々の信仰回復のために用いようとしておられるのです。それは、どんな人のことも忍耐し、回復を待ち望んでおられるからです。

「さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い」

 3章で、すべての装飾品がはぎ取られ、惨めな姿で嘆き悲しんでいた「シオンの娘たちの汚れ」が洗われると告げられています。これは救い(回復)の約束です。さらに・・・

「昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される」

 ここでは、エジプトから救出されたイスラエルの民が体験した出来事を思わせることが記されています。かつて何もない荒野で40年もの期間を、すべての必要が満たされて旅を続けることができただけでなく、約束通りにカナンの地にまで導き入れられたこと、その間、主なる神が共にいて完全に守ってくださった時の様子にそっくりな表現です。…それもそのはず、“あの時の神” が “今” 語っている、ということを強調しているのです。

 そして、あの時とは違う約束が語られます。

「おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ」

 「おおい / 仮庵」とは、雅歌でも登場した婚礼の時に花婿が準備する家のことを指すことばでもあります。その意味で捉えると、イスラエルは偶像礼拝など霊的姦淫を貪る者であるのに、その汚れを洗って(贖って)くださるだけでなく、再び妻として迎えてくださるという “回復” を与えてくださるという約束なのです(この辺のことは、ホセア書がわかり易いでしょう)

 この “立場の回復” が、すなわち “赦し” なのです。

 

では、4章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。