イザヤ書2章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~4節を読みましょう。

「ユダとエルサレムについて示された先見のことば」

 「先見」とは “預言” と同義のことばで、ここには終末に関する預言のことばが記されていますが、「ユダとエルサレム」だけに語られた内容なのか?…というと、そうではありません。ここと同じ内容がミカ4:1~3にも記されているのですが、ミカ書の冒頭を見ると、北イスラエル南ユダ両国に語られたことがわかります。

ミカ1:1「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。」

 では、内容を見ていきましょう。

 まず、「主の家」とは、“エルサレム” のことです。

「山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」

 エルサレムの山が周囲の(?)山よりも高くなる様子が語られていますが、これはどういうことを示すのでしょうか? それを考える前に、終わりの時代の前兆として、どのようなことが起こるかについて語られたことばを見てみましょう。

マタイ24:4~7「人に惑わされないように気を付けなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞くでしょうが、「必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」

 終わりの時代の描写の中に地震があります。イザヤ2:19の「地をおののかせる」は、“地震” を指すと受け取れるので、地震などによって実際に山が隆起して高くなることを示していると解釈することもできますが、続くことばが「すべての国々がそこに流れて来る」とあるので、世界中から注目を集めるという意味にも解釈できます。もしかしたらその両方を含む意味なのかもしれません。

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。」

 「ヤコブの神の家」とは “神殿” を表し、そこに「上ろう」とは、礼拝をするために行くことを意味します。興味深いことは、このことばを呼びかけている人はだれか?ということです。それは「多くの民」(=諸国の民)、つまり異邦人です。

 南ユダの民が、神からのさばきの宣告を聞き入れず、その御告げを思い起こさせるような情勢が迫って来ても危機感を持たなかった理由の一つが、「ユダにはエルサレム(神殿)がある。だから滅びない。」という “間違った信仰” でした。昔、戦場に神の箱を持って行って大敗しただけでなく、敵に神の箱を奪い取られたという愚かな歴史を忘れてしまったのですかね…。それはエルサレムや神殿を偶像化することです。

 自分たちは特別だという思い込みは、同時にエルサレム神殿の無い “北イスラエル” や “異邦人” とは違うという間違った特権意識と差別を生み出し、ますます自分の罪に気付くことも、悔い改めることもできなくなったのです。だから神さまは、彼らが根拠としているエルサレムと神殿をあえて崩壊させ、特定の場所に神がいるのではないということを示されたのです。これがバビロン捕囚です。

 しかし、終わりの時代にはエルサレム(神殿)が再建され、真の礼拝がささげられることと、そこには異邦人も共に礼拝している様子が記されているのです。このことから、神の招きに応じる人は誰でも救いを受けることができることがわかります。人種、社会・文化的環境、時代など何にも妨げられることはないのです。

「主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」

 その礼拝の様子は、「主は…教えてくださる」と主からの語り掛けと、「私たちは…歩もう」と人の側の応答が対になっていて、生きておられる主との人格的交わりがあることがわかります。ものを言わない偶像を前に、一方的な儀式を行うようなものではないのです。

 そして、4節にはエルサレムだけでなく世界中が回復されている様子が描かれています。

「彼らはその剣を鋤に、そのやりをかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」

 先ほど引用したマタイ24章のみことばにあるように、終わりの時代には戦争のうわさや実戦が起きます。それが深刻になっていく中で、人々は平和を求めるようになるのですが、悲しいことに人々は平和を作ることができないのです。一時的な平和はあっても、長続きしないのです。それは現在に至るまでの歴史が示していますよね。しかし4節では、国家間の戦争が止むだけでなく、武器をも放棄し、それらが実用的な道具(農機具)に打ち直される真の平和が訪れると語っています。それはどのようにして実現するのかというと、「主は国々の間をさばき・・・判決を下す」ことによってです。つまり、完全に正しいさばきが成されるので、完全な平和が実現するのです。

*5節を読みましょう。

 4節までの救いと回復の約束を展望させたうえで、“今” するべきことは何か?が告げられます。

 「来たれ」とは、招き(呼びかけ)のことばで、ここでは悔い改めへの招きです。ユダの民だから自動的に救われるのではなく、ユダの地の住民だから安全というのでもなく、罪を認めて悔い改めなければ救いは無いと語っているのです。

「私たちも主の光に歩もう」

 悔い改めとは “反省” することではなく、くよくよと “後悔” することでもありません。悔い改めとは向きを変えるという意味で、罪や自我に向いていた心の向きを神に向き直るということです。それは、偽りの情報や自分の欲を満たす声に聞き従うことを止めて、みことばに聞き従って生きることを始めることです。それが「主の光に歩」むということです。

 ここで「私たち “も”」とあるのは、すでに悔い改めて「主の光」に歩み始めている者たち(3節の多くの民)がいるのだから、それに続こうという励ましと勧めです。

*6~9節を読みましょう。

 ここはイザヤが神に向かって南ユダの現状を語っている部分です。救いと回復の約束と、それを得るようにとの招きが語られても、民には応じる気配が見られないからです。

「あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた」

 失望と嘆きのようなことばから始まっていますが、これは、神さまがユダを見捨てた、見放したことを意味するものではありません。ここの「捨てられた」は “そのままにする” という意味で、要するにユダの民が選んだ道をそのまま行かせたことを示しています。神さまはこのような方法をとられます。本人の意思も無視して無理やりに正しい方に引きずって行くことはせず、本人に言動の責任を問うのです。神さまは、人間に自由意志と、それに伴う責任を与えられ、その意志を持って神に従うことを望んでおられるからです。

 「ペリシテ人のよう・・・東方からの者、卜者で満ち」とは、南ユダの周辺諸国で盛んだった占いやまじないを好んでいたことを示しています。占いやまじないに惹かれる理由は、先のことを事前に知りたい思いがあるからです。失敗したくない、むしろ成功したいという欲や、大事な決断に正解が欲しい、心配や不安を解消したい…などの理由で“先が知りたい”のです。しかし、聖書は語ります。

マタイ6:27~34(抜粋)「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。…きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのですから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。…だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」

ヤコブ4:14「あなたがたには、あすのことはわからないのです。」

 人間は神ではないので、たとい自分に関することであっても先のことは知り得ないのです。それは占いによっても知ることはできないのです。むしろ人間の限界を認めて、へりくだって神に信頼することが必要なのです。

 「外国人の子らであふれている」とは、南ユダが外国との友好な関係を築いていたことを示します。これは、社交的で異文化交流などの“良い”面を示しているのではなく、外国へのあこがれや依存度が高まっていたという “悪い” 面を示しています。神よりも外国の力に頼って同盟を結んだり、外国との関係を築くために公表してはいけないもの(国の財産など)を見せたりしましたが、結局、利益よりも損害の方が大きくなりました。そのとき初めて、諸外国は助けてくれないと思い知るのです。

「こうして人はかがめられ、人間は低くされた」

 諸外国の誇る富や軍事力の豊かさ、異教文化や偶像礼拝のとりことなったユダの民の姿を示した一節です。ここで「かがめられ・・・低くされた」という表現は、“へりくだり” や “謙遜” の様子ではなく、“人間性が低くされた” という意味です。1章では、神を忘れ、背くユダの民は、まるで動物(霊が無い)のようだと言われていましたが、ここでは、まるで自分たちが拝んでいる偶像のようだと言われているのです。

詩篇115:4~8「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

 ユダの民は、主なる神を見上げる目も、みことばを聞く耳も、みことばを実行するための手や足が与えられているのに、それらがひとつも機能していない…そんな現状が「かがめられ・・・低くされた」という表現です。

*10~18節を読みましょう。

 ここでは、「高慢な者」へのさばきについて語られています。この「高慢な者」とは、思い上がっている者のことで、特に「さばかれることはない」と思い上がっている者のことを指します。

 「その日」(さばきの日)には、「岩の間 / ちり」などに身を隠さなければならないほど、差し迫った恐ろしいさばきに襲われると言っています。

*12~18節を読みましょう。

 「レバノンの・・・杉/バシャンの・・・樫の木/高い山々/そびえる峰々/そそり立つやぐら/堅固な城壁/タルシシュの・・・船/慕わしい船」は、当時の人々が誇りとしていた、素晴らしい景観や素材、技術を挙げています。しかし、これらも神のさばきの前には何の役にも立たないのです。

*19~21節を読みましょう。

 さばきに慄く人々が、「岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ」(10節)と言われた通りに、何とか生き延びようとして「岩のほら穴や土の穴」に身を隠している様子が描かれています。

 そして、さばきの恐怖の中、ようやく自分たちが慕ってきた「銀の偽りの神々と金の偽りの神々」とが何の役にも立たない、何の助けにもならないものだと気が付くのです。「もぐらやこうもりに投げやる」とは、その辺に放り出す、捨て去ることを意味します。

*22節を読みましょう。

「鼻で息をする人間を頼りにするな」

 「鼻で息をする」とは、人とはどのような存在であるか、どれほど弱い存在であるかを表すことばです。それは、最初の人間が創造された場面に出てきます。

創世記2:7「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」

 人は、土で作られた人形の状態から、創造主によって「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことによって「生きもの」となった(いのちを得た)のです。つまり、自存できる存在ではなく、“生かされている” 存在であるということを示します。“いのち” をはじめ、生きる上で必要なすべてのものを創造主なる神に依存して生きているのです。当然、他人を生かすこともできませんし、そのような人間の手で作られた偶像の神々に、何の力もないことは明白です。

 人は目に見える存在に頼ろうとするので、人や社会、お金や地位を頼りにします。目に見える安心が欲しいから偶像を造ります。しかし、それらはみな “いのち” の保証をしてくれるものではないのです。実体があるようで無い、虚像なのです。なので、そのような救いも助けも与え得ないものに頼り続けることは、きっぱりとやめなさいと告げています。これは、いのちを与える主なる神に立ち返るようにと、厳しくも愛ある招きなのです。

 

では、2章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。