イザヤ書1:21~31 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*21節を読みましょう。

「どうして遊女になったのか、忠信な都が」

 ここでは、エルサレム(南ユダ)のことを擬人化して、主を捨て、異教や偶像礼拝をするようになった様子を「遊女になった」と表現しています。

 「銀はかなかすに」とは、「銀」に不純物が混ざり、価値が台無しになっている状態を示し、「良い酒も、水で割ってある」も同様の意味です。これは、エルサレム(南ユダ)が「忠信な都、公正があふれ、正義がそこに宿っている」(21節)と言われているように、もとは良いものであったのに、自ら価値を失うようなことをして、その影もない姿に成っていることを示しています。その姿は・・・

*23節を読みましょう。

「反逆者、盗人の仲間・・・わいろを愛し、報酬を求める」

 目先の利益を求め、正義ではなくお金で政治をするようになり、損得勘定で行動するようになりました。

「みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない」

 神のあわれみをもって社会秩序を保っていくために律法を与えられたのに、律法を自分たちに(指導者層が)都合の良いように解釈して適用していたため、公正や公助が行われていませんでした。

 イスラエルの民は、目に見えない神を諸外国に示すための “視覚教材” 的な存在としての役割をするために選ばれた民です。しかし、その “選び” を正しく理解せず、高ぶって諸外国を敵視して見下したり、逆に憧れて真似たり(偶像礼拝、異教文化の取り入れ)と、神を指し示すはずの存在が、全くその役目を果たしていなかったのです。

 現代のクリスチャンも視覚教材的な存在です。些細な振る舞いが、神の愛とあわれみを示すものとなっているか、逆に迷わせ、つまずかせてしまっていないか…イスラエルの失敗から教訓を得ることが大事です。

マタイ5:13「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

*24節を読みましょう。

 「それゆえに」と、イスラエルの罪に対して、主なる神がどう対処されるかを告げられます。

「万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ」

 よく見る表現ですが、定型句ではなく、(当たり前ですが)ちゃんと意味があります。

 当時の南ユダは、北イスラエル、アラム、アッシリヤ、ペリシテ・・・と敵国に囲まれて、常に戦闘モードでした。故に、軍事力を高めることに力を入れ、エジプトなどの大国に助けを求めたりして、主なる神に頼ることをしませんでした。この「万軍の主」とは、自ら先に立って戦われる方、勝利をもたらされる方、ということを示しています。 つまり、あなたがたが真に頼るべき力、真に従うべき権威を持つ方からの御告げということです。

 かつて、エジプトから救い出された時のモーセのことばは感動的です。

出エジプト4:13~14「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

*25~26節を読みましょう。

 「かなかす / 浮きかす」とは、不純物のことで、それらを取り除くのは純度を高めるためです。南ユダは、神の民としての純粋さを失っていました。神にも偶像にも等しく礼拝をささげ、形だけの祈りはしていても、実際は目に見える力(軍備、馬、外国)に頼っていました。そのような二心、どっちつかずの信仰を悔い改めさせるために試みに遭わせることを告げられるのです。しかしそれは南ユダが「初めのように・・・昔のように」純粋さを取り戻すための懲らしめであり、再び「正義の町、忠信な都」として歩むためなのです。

 私たちにとっては辛い面しか見えないことも、神さまはすべてのことに目的と計画をもっておられます。だからこそ、耐えられない試練は無いのです。

Ⅰコリント10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます。」

へブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 そして、懲らしめの後、軍事的な強化や繁栄といったものではない方法で建て直すことが告げられます。

*27節を読みましょう。

「公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」

 それは “贖い” による回復、建て直しです。この詳細は、53章で明らかにされています。

イザヤ53:5「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 その “贖い” は「公正 / 正義」によって成されたと語られていますが、これは、さばきを宣告する主ご自身が贖い主となって救ってくださったことと、全く正しい方が身代わりとなられたということをもって、その贖い(救い)が完全であることを示しているのです。

Ⅰペテロ3:18「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」

 主なる神がすべてを成してくださったので、この時点で民に求められていることは「悔い改める」ことなのです。27節で語られた贖いの約束は、民が罪を認めて悔い改めること無しに実行されることはないのです。

*28~31節を読みましょう。

 エルサレムが「正義の町、忠信な都」として回復するためには、背きの罪を徹底的に取り除かれる必要があることが告げられます。

 ここでの「樫の木 / 園」とは、当時偶像礼拝がささげられていた場所を意味し、「葉のしぼんだ樫の木 / 水のない園」とは、それらの偶像にはいのちがなく、人を生かす力も、慰めいやす愛もないことを示しています。

 さらに、「つわものは麻くずに、そのわざは火花に」と、偶像の空しさや実体のない虚像であることを告げています。その次の「その二つとも」「二つ」とは、偶像と偶像職人のことを指し、どちらも神のさばきの前には無力であることを告げています。要するに、「そんな空しいものをいつまで頼りにしているのだ」と、偶像との関係をきっぱりと断ち切ることを迫っているのです。

 ちなみにイザヤ書では、偶像に関する記述も詳細に記されています。それほど偶像礼拝の罪は根深く、深刻なものだったことがわかります。

 それでも、神さまはさばきと共に救いの約束を告げられ、民に対する愛とあわれみを示し続けてくださったのです。この “主の忍耐” によって私たちも救われたことを忘れてはいけないのです。

 

*では、1:21~31を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。