伝道者11章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~2節を読みましょう。

 「あなたのパンを水の上に投げよ」とは、一見、無駄と思われることであっても、思い切ってやってみなさいとの勧告のことばです。強く勧める理由は、いつか報われる時が来て、決して空しく終わらないからです。

 この箇所はいくつか解釈が分かれる部分です。代表的なのは、貿易や事業拡大などリスクを覚悟で挑戦(投資)してみなさいという意味として解釈する見方ですが、私個人としては、「日の下で」「空しさ」を語り尽くしてきた伝道者の書の締めくくりに “この世の成功を求めるような勧め” は しっくりこないので、ここは福音伝道(証し)の勧めと受け取りたいと思います。

 自分自身がすでに受けた「パン」(いのちのパン=キリストのみことば)を伝えていくこと、証しをすることは、時には大きな犠牲を伴います。「日の下」においては、全く無駄な労力であり、空しい働きと見られます。しかし、成し遂げるべきことなのです。

 その理由①「ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」

  ・・・みことばは “空しく終わる” ことがないからです。

イザヤ55:10~11「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」

 その理由②「地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから」

  ・・・明日何が起こるかさえ知らないからです。私たちは、明日も今日と同じ平凡な一日が来ると思い込んでいます。いつも顔を合わせる人とは、明日も会えると思っているので「明日でいいか」と先延ばしします。しかし、それらの「きっと~だろう」という、自分の計画通りの明日が来る保証はないのです。

*3~4節を読みましょう。

 ここでは、創造主なる神が定めた気象のしくみによって雨が降ったり風が吹いたりする様子を例に挙げ、人間がいくら望んだとしても、どうすることもできないことがあることを語りつつ、だからと言って、それを言い訳に様子見ばっかりで何もしないなら、何も得ることができない(何の収穫も期待できない)ことを示しています。

*5節を読みましょう。

 「妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない」とは、「どのようにしていのちの息吹が妊婦の胎内の中の骨に入るかを知らない」と訳すこともできます。「風」という語には「霊」という意味もあるため、それを「いのちの息吹」と解釈しての訳です。

 人は、肉体だけの存在ではなく、知性や精神などの “霊” と “たましい” があります。

参考】Ⅰテサロニケ5:23「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」

 そして、“生きている” のは “霊” と “たましい” が肉体にとどまっている状態のことを言うのです。

創世記2:7「神である主は土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」

 しかし、“いのち” そのものである “霊・たましい” は、X線にもCTにもMR Iにも映らないので “形” として確認することができない部分です。また現代は、胎児の発育の様子などが解明されているので、各器官が何週目に形成されるのかが分かっていますし、胎児の様子を画像で確認することもできます。しかし、一番大切な “霊魂” が “いつ” 胎児の中に入るのかは可視化されていません。誰も見たことがないのです。つまり人間は「生きている」自覚があるのに、“いのち” について説明できないのです。それもそのはず、これらは「神のみわざ」だからです。

*6節を読みましょう。

 「朝のうちに」とは、「 “まだ” 朝だから」と先延ばしにしてはいけない、という警告で、「夕がたも」とは、「 “もう” 遅いから」と諦めてはいけない、という警告です。

 今まで何度 “まだ” と “もう” という言い訳をくり返して来たでしょう? 自分ではタイミングを読んでいるつもりでも、実は “怠惰” や “逃避” からの言い訳だったりします。成功するか?利益は有るか?と計算することが賢い生き方ではなく、「朝にも・・・夕方にも」成すべきことに気付いて実行することこそ賢い生き方なのです。

エペソ5:15~16「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。」

*7~9節を読みましょう。

 最後の部分では、人生を好きな事をやって思う存分楽しむがいい、と勧めているように見えますが、ここでの結論は「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」という部分です。

 人生は長いようで短く、やろうと思っていることを行う実行力や精神力、体力がみなぎっている「若いうち」という期間は長くはありません。気が付けば、体力も精神力も衰えが出始め、新しいことに挑戦することが億劫になり、好奇心よりも不安や心配の方が増している・・・なんて変化が起こるのです。

 成すべきことを放棄し、自分の欲を満たすことを追い求めた先にあるのはどんな “報い” でしょう? 与えられた人生を楽しんでよいのです。しかし、どのように楽しむのかは、もっと大切なことです。それは「これらすべての事において、・・・神のさばきを受けることを知って」、“神に会う備え” をすることです。

 

では、11章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。