*1節を読みましょう。
「死んだはえは・・・臭くし、発酵させる」とは、9:18「ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす」の言い替えで、もとは “良いもの” であっても、「少しの愚かさ」によって全体が台無しにされてしまうことを示しています。輝かしい過去(功績や成果)を持つ人が、たった一言の失言やたった一度の失態で多くのもの(信頼、人間関係、仕事等)を失った報道などを見ることがありますが、罪や愚かさに “大小 ”の区別などは無いってことがわかりますね。
*2節を読みましょう。
「右に向き・・・左に向き」とは、「右」を「正しい道」、「左」を「悪の道」と訳している聖書もありますが、要するに「知恵ある者」と「愚かな者」の「心」の向きは正反対だ、ということを言っています。
*3~4節を読みましょう。
ここからは、「愚か者」の行動が描かれています。
「自分が愚かであることを、みなに知らせる」とは、些細な言動の端々に “愚かさ” が表れてしまっていることを示しています。
4節は、叱責された時の正しい対処の仕方を述べています。「その場を離れてはならない」とは、感情的になって行動してはいけない、感情を露にしてはいけない、ということです。それは、理不尽な叱責を受けた時や、人前で恥をかかされた時なども例外なく、そのようにすべきです。なぜなら「冷静は大きな罪を犯さないようにするから」、つまり、感情的になってしまうと、自分で自分をコントロールすることが難しくなり、罪を犯してしまうリスクが高まるからです。
*5~7節を読みましょう。
ここでは「ひとつの悪」として、愚かな「権力者」によって引き起こされる無秩序と矛盾が述べられています。
この「権力者」は、知恵が無いために、適切な人事をすることができなかったことが「愚か者が非常に高い位につけられ・・・富む者が低い席につけられ・・・奴隷たちが馬に乗り…君主たちが奴隷のように地を歩く」と表現されています。このような秩序を欠いた組織は、その組織が大きければ大きいほど関係する人も多くなるので、混乱や損害も大きくなります。
・・・例えば、仕事のできない上司の下で働く仕事のできる部下は、どんな気持ちか考えてみましょう。「なんでこの人は仕事ができないのに、自分よりも高い給料をもらっているんだ」と上司を見下し、嫌悪感が増し、組織に対する不平不満も増します。すると、やりがいは損なわれ、やる気をなくし、「自分がいなかったら仕事は回らないのに」と高ぶったり、人を優劣で判断してさばいたりするようになるのです。もともとは能力を発揮してまじめに取り組んでいたのに、いつの間にか悪い思いで心が満たされてしまっているのです。秩序が損なわれるところには、このような悪の連鎖があるのです。
人間にとって必要なのは “地位” や “高い能力” ではなく、“愚かさ” を認めてへりくだり、「知恵」(主を恐れ、主に頼ること)を求めることです。
*8~11節を読みましょう。
ここでは、4節で語られていた “感情で反応して行動してはいけない” ということと、5~7節で語られていた “知恵こそ必要である” こととのまとめです。
「穴を掘る / 石垣を崩す」は、どちらも悪意からの行動を示しています。4節のような状況で、感情的になって「復讐してやろう」「思い知らせてやる」などの思いから出た行動です。しかし、「それに落ち込み / 蛇にかまれる」とあるように、その行動は “愚かさ” となって自分に返ってくるのです。
10~11節は、“時” をどのように用いるかにも知恵が必要であることを述べています。
「もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる」
斧を持っていても、“刃を研ぐ” という “準備” に時間と労力を割くことを惜しんだために、せっかくの斧を適切に用いることができず、無駄に体力を奪われるはめになる様子を通して、備えるべき時に備えない、時を正しく用いない(怠惰)ことは “愚か” であると語っています。事前の準備を惜しむと、その時は時間を節約できたと感じるかもしれませんが、後々、無駄な損失(時間、体力、納期を守れない等)を被ることになります。
「もし蛇がまじないにかからずにかみつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない」
「まじないにかからずに」とは、“まじないにかける前に” という意味で、蛇に暗示をかけて操る方法を知っていても、“かける前に” 蛇にかみつかれてしまうなら、蛇使いとして一番見せてはいけない姿を見せてしまうことになるので大失敗です。このように、やり方や方法を知って(技術を持って)いても、やらなかったり(省略したり)、先延ばししたりするなど、“時(タイミング)” を間違えると「何の益にもならない」ので、時を適切に選ぶことは重要なのです。
*12~15節を読みましょう。
「愚かな者」のことばくちびるについて語っています。
「その身を滅ぼす」は、「自分自身をのみ込む」と訳している聖書もありますが、“自分自身に返って来る” ということを意味します。愚かな発言をしたくないなら、思ったことをそのまま口に出すことをやめることです。そして、人に対して吐いたことばはいつか自分に返ってくると考えて、一呼吸置いて発するなどの工夫も大切です。
また、「始まりは、愚か・・・終わりは、みじめな狂気」とあるように、「愚か者」の発言は、始まりから終わりまで一貫して「愚か」であると言っています。
そして、「知らない」のに「よくしゃべる」という特徴も挙げられています。知ったかぶりをしたり、賢く見せようとしてよく喋ってしまうのですが、喋れば喋るほど無知をさらしたり、つじつまが合わなくなってウソやごまかしを混ぜてしまったりして、愚かさを表すことになってしまうのです。
その無知と愚かさは「町に行く道さえ知らない」レベルだと言われています。「町に行く道」とは、特別な知恵や知識ではなく、日常的な常識、多くの人が知っている事などを表し、“知るべきこと” を「知らない」状態を示しています。
*16~17節を読みましょう。
ここでは、人々に「わざわい」と「幸い」もたらすのは、上に立つ者が時を見極めて準備、行動することにかかっていることが記されています。
「王が子ども」とは、子どもじみている(精神年齢が幼稚)という意味です。「朝から食事をする」の「食事」は “朝食” のことではなく “宴会” のことなので、任務に就かないで宴会騒ぎをしている様子を示しています。「王」や「首長」といった、上に立ち、指揮を執る立場の人が、その日その時に成すべきことをしないで、自分のしたいと思うこと(欲を満たすこと)を優先させていたら、国の安全は守られるでしょうか? その国は繁栄するでしょうか? ・・・しませんよね。
一方の17節「貴族の出」とは、高位に就くために、幼少期から教育訓練を受けてきた人、つまり準備ができている状態で「王」に就いた人のことです。このような人が治める国は、首長たちも任務に備えることを心掛けているので、欲を満たすためではなく、一日の務めに “備える” ために「食事」をとります。このような国は、危機管理ができているので敵が攻めて来ても防衛ができ、安心に暮らすことができるでしょう。
*18~20節を読みましょう。
16節のような “準備” をしていない “成すべきことをしない” ことが、どのような「わざわい」を招くかを語っています。
「なまけていると」とは、“両手が垂れている” という意味、「手をこまねいていると」とは、“片手が垂れている” という意味なので、やる力も時間もあるのに “何もしていない” あるいは、“ただ眺めているだけ(手は出さない)” ことを示しています。問題があるのに、それを放置し続けた結果「天井が落ち / 雨漏りがする」といった大きな問題に発展してしまい、被害も大きくなってしまったことを示します。問題はなるべく小さな時からしっかりと向き合って解決を求めるべきです。面倒くさくても、先延ばしにしたり、誰かに押し付けたりしないで、自分の問題として向き合うべきです。なぜなら、それらは、砕かれるため、へりくだるため、悔い改めるため、何かを学ぶためなどに必要な訓練として与えられているものだからです。
最後の19~20節は、妬みや不平不満から、陰口を言ったりして憂さを晴らすような日々を送るのではなく、隠れた場所での言動も知られているという正しい畏れ(主なる神に対する恐れ)をもち、毎日の成すべきことを忠実に行うなら、日常の必要に困ることはない、ということを語っています。
マタイ6:33~34「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
では、10章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。