伝道者9章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1節を読みましょう。

 8:17「知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることができない」ということについての一例を示しています。

 人間には、悪事だけでなく “知恵ある行動” や “正しい行動” を求める心もあり、そのような行動をすることもあります。しかし、それらの行いも「御手の中にある」と言われています。これは、行いが本当に良いことかどうかは、「人にはわからない」ということを示しています。また、行いの動機の部分でも、「愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない」としています。例えば、自分では愛する故に取った行動でも、実はねたみや嫉妬心などの歪んだ愛である場合もあるのです。

*2~6節を読みましょう。

 ここでは、再び「すべての人」が “死” という「同じ結末」に至ることが語られています。

 “死”は、どのように生きたか、何をやったか(あるいはやらなかったか)…などに関係なく、すべての人に定められている「結末」です。・・・であるならば(死は避けられないのなら)、好きなように生きた方がいいじゃないか、と考える人もいたようです。それが3節で言っていることです。このような思想の持ち主は、いつの時代にもいます。

イザヤ22:13「なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから』と言っている。」

 しかし、これは正しい考えではありません。このような考えは、誰もが辿り着く “死” という「結末」を正しく捉えていないことによる誤解釈です。人間は、“死” に関してなるべく考えないように生きていますが、“死” の意味やその先に何が待っているのかを知る事が、“今” をどのように生きるべきかを判断するために重要なのです。上記のイザヤ書と似たような表現をしている聖句がありますが、そこには次のように記されています。

Ⅰコリント15:32~34(抜粋)「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。…目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。」

 「死者の復活」とは、罪の赦しを得て死んだ者たちが、死後に罪のさばきを受けることなく、永遠に生きるものとされることを示しており、「死者の復活が無いなら」とは、“死後のさばきがないなら” という意味です。また、そのような考えを主張する人たちは「神についての正しい知識を持っていない人たち」と言われています。この「正しい知識」とは、①すべてのいのちあるものは創造主なる「神」によって造られたこと、②造られたものである故に、死後には「神」のもとへ帰らなければならないこと、③「神」による “さばき” を受けなければならないこと(与えられた人生をどう生きたかを弁明しなければならない責任を負っていること)を知らない、ということです。

 では、人はなぜ死ぬのか? 度々引用する聖句ですが、ここでも引用しておきます。

ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。」

へブル9:27「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」

 なぜ死ぬのか?・・・それは罪があるからで、死後にはその罪のさばきを受けるのです。

 しかし、これだけだとなお絶望的になって、死ぬ前に楽しむだけ楽しんだ方がいい、と思ってしまいそうですが、上記の聖句にはつづきがあります。

ローマ6:23「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリストイエスにある永遠のいのちです。」

へブル9:27「キリストも、多くの人の罪を追うために一度、ご自身をささげられました」

 ここには、生きている間に何をすべきか? についての答えが示されています。

 死後には罪のさばき(人生の説明責任と清算)が待っていることを覚え、死後の備えをすることです。その備えとは、すでにキリストが成し遂げてくださった救いを受け取ることです。この “備え” は、生きている間にしかできません。それが4節「生きている者に連なっている者には希望がある」と言われている事の意味です。

*7~10節を読みましょう。

 ここでは、どのように生きるべきかについて語られています。

「喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め」

 快楽にふけることは間違いですが、だからといって、禁欲的に生きることも違います。「あなたのパン / あなたのぶどう酒」とは、自分で働いて得たもの(盗んだものではない)のことで、人並みの労働をし、その報酬によって食べたいものを食べ、時には小さな贅沢をすることは「悪」ではありません。素直に楽しんだらいいのです。

「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない」

 ここでの「白い着物」とは、おそらく祭服のことで、ユダヤの成年男子が安息日に来ていた着物のことを指しているとも言われていますので、“礼拝”ということを表している表現でしょう。しかし、「いつも」とあるので、これが安息日に限定されたことを取り扱っているわけではないことがわかります。現代であれば、教会に集まってささげられる礼拝は日曜日に限ったことですが、“日曜日だけ” が礼拝の日ではありません。また、“教会” に行かなければ神さまはいないのでしょうか? そうではありません。むしろ、神さまは限定された場所に閉じ込められているお方ではないのです。

使徒17:24~27(抜粋)「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。…確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」

 「いつも・・・白い着物を着」とは、日々の神の恵みに気付き感謝すること、神によって生かされていることを覚えてへりくだること、飲食だけでなく “みことば” によって生きることを求める、…という個人的な礼拝をささげ続けることの勧めです。

 「頭には油を」「油」は、“喜び” や “霊” などを象徴する表現なので、神の恵みに感謝する生活を “喜び” とするように、との勧めであるのと、「頭」(=思考)を、霊の糧である “みことば” に根拠を置いて判断することを勧めているものと思われます。

「あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい」

 人生の中で契約(誓約)を結ぶ機会はそれほど多くはありませんが、その一つが “結婚” です。勘違いしがちなのが、“夫が妻に、妻が夫に” と “相手(互い)” に対して愛を誓い合うのが結婚だと捉えている方が多いですが、そうではありません。夫となる者も妻となる者も、それぞれが “神に” 対して相手を愛することを約束するのが結婚の誓約です。イメージ的には、夫と妻とが直接手をつなぐのではなく、夫と妻との間にキリストがおられ、双方の手をキリストによってつながれている状態です。これが最も “切れない” 堅い結びつきなのです。なので、相手が嫌いになった、性格や価値観が合わなさ過ぎた、すれ違い生活がさみしかった、他に好きな人ができた…などの相手に対する愛が冷めたことや不満を理由に離婚をする人がいますが、究極的には相手に対する約束ではないので、相手に対する感情がどう変わったとしても離婚の理由にはならない(聖書が離婚を否定する理由のひとつ)のです。・・・少し脱線しましたが、ここで言われていることは、神との約束を果たしなさい。ということです。

「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」

 これは、自分に任された責任を果たしなさい、ということです。怠けたり、さぼったり、責任転嫁したりせずに、ということです。なぜならば、ぼやぼやしている内に時は過ぎ、「遅かった…」と後悔する時が来てしまうこともあるからです。過ぎ去った時は取り戻せませんから。

*11~12節を読みましょう。

 私たちは、小さな時から競争社会で生き残るよう教育されています。進化論で教えられる弱肉強食や進化の歴史などは典型的なものです。「競走は足の早い人のもの・・・戦いは勇士のもの・・・パンは知恵ある人のもの」と、優秀であることや強いことが称賛され、そのような秀でた面がない人たちは劣等感やコンプレックスに悩まされ、勝手に「自分はダメだ」と思い込み、最初から「やらない」選択をしてしまう人もいるのです。しかし、ここでは「競争は足の早い人のものではなく」「~ではなく」が繰り返され、“選ばれた人だけがスタートラインに立てる” という思い込みは間違いで、むしろ、人生のあらゆるステージに立つ「時と機会」「すべての人」に平等に与えられていると語っています。

 しかし「人は自分の時を知らない」ので、「時と機会」が巡って来ても、そのチャンスを生かせず終いになったり、準備不足で失敗したりするのです。それを人は「運が悪かった」とか、自分以外の所に責任転嫁して自分を慰めようとしますが、本当は自分の力(限界)を「知らない」ために、高ぶって準備を怠ったり、失敗して恥をかくのが嫌で挑戦しなかったり、自分の時を「知らない」ために、まだいいやと先延ばしにしたり、時が来ていないのに焦って空回りしたりすることによって起こる失敗なのです

*13~16節を読みましょう。

 最後の部分では、競争社会や弱肉強食の世界が称える “強さ” や “力” よりも、「知恵」の方が優っていること、しかし、人はそれに気づかないという空しさが述べられています。

 ここに記されている話に似たような実話はⅡサムエル20章に記されていますが、今日はそこからではなく、もっと実用的な面で読み解きたいと思います。

 「大王」の築いた「とりで」とは、敵の攻撃から身を守るための要塞のことですが、聖書の脚注にもあるように、もともとは “網” という語で、12節の「悪い網にかかった魚 / わなにかかった鳥」という表現と関係があります。「とりで」は、本来は自分たちの領土内に築くものですが、「大王」は攻略する敵地内に「とりで」を築いています。これが「わな」なのです。

 ここでの「小さな町」は “私たち” のこと、「大王」は “サタン” のことを指すと見ていきます。そもそも「大王」「小さな町」に目を付けたのは、“弱そう” だったからです。すぐに陥落するだろうと見透かされたからです。このように、サタンは私たちの “弱さ” に付け込んで誘惑してきます。それが、私たちの日常の中に仕掛けられた “わな” です。

 そのようなピンチを救ったのが「貧しいひとりの知恵ある者」でした。彼は「小さな町」の住民でもありました。これは “キリスト” を示すと見て読み進めます。

ヨハネ1:14「ことば(=キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。」

 この「貧しいひとりの知恵ある者」によって、「大王」の前に、無力にも成す術なかった「小さな町」「解放」されたのです。しかもその方法は「自分の知恵を用いて」とあり、かつて誰も思いついたことのない方法であったのです。天地万物を造られた神ご自身が、人の姿をとってこの世に下られ、罪人らの身代わりとなって死なれるという、前代未聞の救いの御業が成し遂げられたのです。

ピリピ2:6~「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

ローマ3:23~「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 「小さな町」が、大勢の軍隊の武力によってではなく、たったひとりの「知恵」によって救い出されたという、歴史的にも英雄として名を遺されそうな出来事であったのに、「しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった」と、思いがけないオチが記されています。…え、なんで? なぜだと思います? …おそらく、この人が「貧しい人」だったからでしょう。英雄らしからぬ人だったので、敬われることも、愛されることもなかったのです。キリストに対する評価も同様のものでした。進化論を土台とした競争社会の思想が、キリストを知ることの妨げとなっているのです。

ヨハネ1:10~11「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

イザヤ53:2~3「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

*17~18節を読みましょう。

 そして最後に、「知恵」を尊ぶことを教訓的に語ります。

 「知恵ある者の静かなことば」とは、“静まった中で聞く知恵ある者のことば” という意味で、聖書のみことばのことを示します。「愚かな者の間の支配者の叫び」とは、私たちの日常にあふれる情報や人のことばのことで、これらのことばが正しいかどうかもわからないのに、一喜一憂したり、踊らされたりします。

「知恵ある者の静かなことばは、・・・よく聞かれる」

「よく聞かれる」とは、 “力がある” という意味なので、「知恵ある者の静かなことば」に聞き従うことの大切さを語っています。なぜならば、「知恵は武器にまさ(る)」ほど、力があるからです。

申命記30:14「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

 「武器」は、自分を守るため、敵と戦うために用意するものですが、本当に自分を守りたい、勝利を願うのであれば「武器」ではなく、「知恵」を求めるべきなのです。そして、その「知恵」はキリストにあるのです。

コロサイ2:3「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

 

では、9章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。