箴言21章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1節を読みましょう。

 「王」は、人間世界では誰からも支配されない最高権威者ですが、そんな王をも治めておられる方「主」がおられるのです。もともとイスラエルにおいては「王」は神によって任命され、神の代理として民にみことばを語り、民を代表して神にとりなし祈る…という、神に目を向けさせ、神に従うよう民を導くための働きを委ねられた神の器であったのです。そのような神の器であることを表しているのが「水の流れ」ということばです。

 ここの「水の流れ」とは、人工的に作った “水路” のことです。まさに「主の手の中にあって / みこころのままに向きを変えられる」力を持っておられる方であるということです。

*2節を読みましょう。

 人生とは選択の連続です。進学、就職、結婚といった大きな選択だけでなく、何を着ようか何を食べようか…といったことも、すべて選択をしているのです。そして、その選択の結果「正しいと思う」ことを行っているのです。…と言う意味では、今まで自分が行ってきたことは、“自分が「正しい」と思った” ことの記録なのです。

 しかし、それが本当に「正しい」選択だったのかはどのようにしてわかるのでしょう? それは "何を基準に選択したか" を調べることによって判明するのです。どれを選んでも大差ない、とその時の気分や感覚、好みで適当に選んでしまいがちですが、神さまは一つ一つの選択を大切にすることを望まれます。だからこそ、神さまは「人の心の値打ち」(本音や動機)を「はかられる」のです。

*5節を読みましょう。

 まずは後半から見ていきましょう。「すべて慌てる者」とは、“せっかちな人”、“待てない人” のことです。すぐに結果を知りたい、早く解決したい、無駄なく効率よく進めたい…などを求める人のことでしょう。このような人は、待つことや遠回りすることを “無駄” と考えます。ロスを減らすことを賢い生き方だと思うのです。しかし、神さまが求めておられるのは、“忍耐” と “忠実” です。

 「勤勉な人」とは、自分に与えられた働きを “忍耐” して “忠実” に勤め上げる人のことです。そのようなひとに神さまが「利益をもたらし」てくださるのです。

へブル10:36「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

マタイ25:21「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

*10節を読みましょう。

 「悪者」「悪」は、どの時点から始まるのでしょうか? 悪行を行った時からでしょうか?

「悪事にあこがれ」とあるように、「悪事」に興味関心を持った時点から、心が「悪事」に向いていることが「悪者」の始まりなのです。そして、何が「悪」なのか? それは「隣人をあわれまない」ことです。例えば、自分が得した時、その “得” の反対側には “損” した人が存在するはずなのです。そんなこと考えずに、自分が得することを求め、得したことに気を良くするのであれば・・・それは「隣人をあわれまない」悪事なのです。

*11節を読みましょう。

 あなたが道を走行中に、白バイに捕まって切符を切られている人を目撃したら、少し緊張感がでて、速度に気をつけたりしますよね? そのように、誰かが罰を受けている姿を見るだけで、犯罪への抑止力になります。

 「わきまえのない者」とは、しっかりと確信を持とうとしない人のことで、このような人は、確信が無いために、人の言動によって自分の行動を変えるのですが、ここではそのような確信を持つまで学ぼうとしない「わきまえのない者」でも、「あざける者」が罰せられている姿を見て「知恵を得る」と言っています。「知恵」とは、“主を恐れること” を意味するので、さばかれることを恐れて悪から離れようとすることを意味します。

 一方、主を恐れる「知恵ある者」は、それ以上のことを学ぶのです。

*13節を読みましょう。

 本来、目は閉じることができますが、「耳を閉じる」ことはできません。なので、本当は聞こえているのですが、その「叫び」にどう応えるかを考えるのが嫌なので、聞かなかったことにする、ということです。「寄るべのない者」に手を差し伸べることはリスクでしかないからです。

 しかし、彼らの「叫び」は、主なる神のもとに届いています。

ヤコブ5:4「見なさい。あなたがたの畑の借り入れをした労働者への未払賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」

 そして、主なる神は、彼らの身近な人を用いて、実際的な助けと救いを与えてくださるのです。なので、「寄るべのない者の叫び」を聞いた人は、主なる神が “用いようとされている人” である可能性が高いのです。それなのに、リスク回避や自己保身のために、助けることを拒むことは、神さまに対して拒絶しているのと同じなのです。だから「自分が呼ぶ時に答えられない」のです。自分の方から神さまを拒否してしまったのですから。

*20節を読みましょう。

 一行目は、「知恵のある者」が、与えられたものを正しく管理している様子を描いています。一方、「愚かな者」は、与えられたものを “自分のもの” と思うので、浪費してしまっている様子が二行目に描かれています。

 与えられたものとは、お金だけを指しません。時間も体力も能力も…すべて与えられているものをどう使うかは “自由” ではあるのですが、正しい使い方(豊かに用いられる使い方)と悪い使い方(無駄に失われる使い方)があることを覚えておくべきです。

Ⅰペテロ4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

 そして、その使い方の一例が25~26節に記されています。

*25~26節を読みましょう。

 ここに登場する「なまけ者」は、何もせず、一日中ゴロゴロしているような人ではなく、「自分の欲望に明け暮れている」とあるので、自分の利益につながらないことはやらない、無駄に動くことをしない、でも、自分の好きな事に関してはアクティブである、というような人のことでしょう。本人は、「無駄だ」と思う事には一切力を使おうとしないので、省エネで「賢く生きている」つもりでしょう。しかし、本当に賢い人というのは、正しいことに労を惜しまない人のことです。その一つが「与える」ということです。「与える」という行為は、自分の手から持ち分が “減る(無くなる)” と考えるので、しぶってしまうのですが、実はそうではないと聖書は語ります。

使徒20:35「受けるよりも与えるほうが幸いである」

Ⅱコリント9:10~11「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」

 損得勘定で行動したり、損をしない選択をすることが賢い生き方ではありません。主なる神のあわれみの心を受けて、隣人に実際的な行動を通してあわれみを示すこと、主なる神の恵みに感謝して、主のみこころに叶った使い方をすることができるよう祈り求めることこそ賢い生き方であり、「なまけ」心から自分を守る秘訣なのです。

 

*では、21章を読みましょう。   

   ・・・最後にお祈りしましょう。