Ⅱ歴代誌7章 | 聖書が読みたくなる学び

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*1~3節を読みましょう。

 6章での、ソロモンの祝祷と、とりなしを求める祈りの後の出来事です。

 「火が天から下って来て…いけにえとを焼き尽くした」という描写は、まさに、ダビデがこのエブス人オルナンの打ち場を買い取って祭壇を築き、いけにえをささげた時に起きた状況と同じでした。その時は、ダビデが罪を認めて悔い改めたことを受け取ってくださったことを示していましたが、ここでも“神さまは(祈りを)受け取ってくださった”ことを表して、同じような描写を示すことで、ソロモンに確信を与えられたと思われます。

*4~6節を読みましょう。

 天からの火が、いけにえを焼き尽くし、栄光(おそらく雲のような形)が宮に満ちた光景に、恐れてひれ伏した人々は、主が喜ばれたことを受けて、多くの和解のいけにえと賛美がささげられた。

*7~8節を読みましょう。

 そのいけにえは、祭壇で焼き尽くすことのできないほど大量であったため、祭壇ではない場所を聖別し、そこでもささげられました。なぜ、それほど大量であったのかというと、この奉献式に招かれた人が多かったからです。「レボ・ハマテ」は、当時のイスラエル最北端で、ユーフラテス川付近の町です。そして「エジプト川」は、最南端の地域のことで、この地域を見ると、アブラハムに示された土地とほぼほぼ一緒であることがわかります。本当に、神さまは、約束通りに導き至ってくださることを確認できる記述です。

*9~10節を読みましょう。

 さて、ここで一連のスケジュールを確認しておきましょう。

 8節「七日間の祭り」は、9節「七日間、祭壇の奉献を行い」と同じ期間を指していて、神殿が完成した時に行われた神殿の献堂式のことです。八日目のきよめの集会、七日間の祭りの前後関係は以下の通りになります。

►第7月8~14日 神殿奉献の祭り 1日目 ⇦「七日間の祭り/祭壇の奉献」    

(10日 贖罪の日)   *仮庵の祭りに関する規定はレビ23:34~を参照。

    15~21日 仮庵の祭り ⇦「七日間、祭りを行った」

          22日  安息日      ⇦「八日目のきよめの集会」

          23日  解散       ⇦10節の出来事

*12節を読みましょう。

 二週間に及ぶ大々的な祭りが幕を閉じ、歓喜と興奮から解き放たれ、静寂と孤独な状態にあるソロモンに、神さまが語り掛けられました。このような描写はよく見られます。人々に囲まれて、にぎやかで、華やかな場面では、心がいろいろなことで満たされ、散漫になっている時ではなく、一人で静かにしているとき、神さまは語り掛けられるのです。

 仮庵の祭りは、神さまが荒野という不毛な環境下において、すべてを満たし、常に守り、約束通りに導かれたことを覚えるための例祭です。荒野においては、心を騒がせる余計なものがなく、神さまと向き合う場所でした。その仮庵の祭りを祝ったばかりですが、本当の意味での仮庵の祭りをソロモンは体験させられたのです。

神さまは、ソロモンの祈り(6章)を聞き、それに対する約束を告げるために現れてくださったのです。

私たちの神さまは、聞いて下さり、語ってくださる神です。だからこそ、祈るべきなのです。

*14~16節を読みましょう。

 14節のみことばから、神さまの求めておられる祈りがどのようなものであるかを知ることができます。

民がみずからへりくだり

 神さまの求める祈りの基本は “へりくだった祈り” です。それは“神を神とする、主を主とする”祈りであり、神さまを褒め称える要素が含まれた祈りのことです。主の祈りがまさにそうですね。

 本来は、神さまに軽々しくお願いすることができるような立場になかった。神さまとの断絶を生み出した罪を、自分でどうすることもできない者だった。そのような者だったことと、反して、神さまは聖なる方であることを、救われた後も、忘れてはならないのです。しかし、恐れて退くのではなく、救われたことで、交わりが回復されたことを感謝し、正しい畏れをもって祈る祈りがへりくだった祈りです。

わたしの顔を慕い求め

 私たちは、祈りの答えや導きなどを求めるばかりで、神さまご自身を求めることは、あまりしていない。しかし、神さまは “何かを得る” ための祈りよりも “御顔を求める” ための祈りを求めておられます。

御顔を慕い求めるとは?…まず前提として、神さまの御顔は、常に私たちの方に向いているのですが、私たちの方が、御顔を避けたり、隠れたりしてしまうのです。だから、神さまの方に “向き直る” ことをするのが、御顔を求めることです。そして、ただ求めるのではなく「慕い求める」とあります。「慕い求める」とは、 “それに従って考える、判断する” ために求めること、“それに従って行動する” ために求めることを意味します。つまり、自分の思うまま、意思に従って判断し、行動することをやめて、神さまに相談し、神さまが良しとされる道を選び、歩むことを願い求める、そのような祈りを指します。

悪い道から立ち返る

 先ほどの “神さまの方に向き直る” という意味と同じですが、こちらの場合は「悪い道から」とあるので、罪の悔い改めを意味します。13節で挙げられている苦しみのような、天災、自然災害、疫病の蔓延などは、個人レベルでどうにかなることではないので、このような困難にぶつかると、人間の側の問題ではなく、神がのろっている、神が不幸を与えて苦しめている、と考えがちです。私に落ち度はない、私の責任ではない、私のせいではない、と。しかし、どんな問題・困難にも、必ず意味があり、それらを通して、神さまを知り、自分を知る機会が与えられているのです。だからこそ、神さまに不平不満をぶつけて、罪に鈍感になる悪の道に進むことから悔い改めて、生きるために神さまに向き直る祈りが必要なのです。

彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう

 私たちは祈りの答え、自分の願う物を得ることを求めますが、神さまが与えて下さるものの第一のものは「罪の赦し」であると言われています。なぜなら、私たちに生きて欲しいからです。いのちがなければ、他の物を得たとしても、空しく終わるだけなのです。そして、私たちに与えられた救いは、神さまとの交わりの回復を意味します。ただ天国に行けるだけの救いではなく、失われた神さまとの交わりを回復するために救ってくださったのです。その交わりを失わせるのは“罪”です。だから、罪の赦しが何よりも優先するのです。

 *19~22節を読みましょう。

 祈りの祝福を語られた後、警告も語られました。6章のソロモンの祈りの最後にあった、捕囚になった時の祈りを受けて、神さまご自身もその点に触れて語られました。捕囚は本当に起きてしまうのですが、その時、イスラエルにとって想像もしていない不思議なことが起きることも語られました。それは、イスラエルの民が、神さまを捨てたため、約束の地から引き抜かれ、外国の地へ連れて行かれた結末を、異邦人たちがどのように見るか、という内容です。普通は、「イスラエルの信仰している神は、民を守れない。アッシリアやバビロンの神の方が偉大だ」などと、嘲られ、神さままでもが笑いものにされるでしょう。しかし、実際はその逆で、「エジプトの地から連れ出した神である主を捨てて、偶像を拝するようになったために、主によってさばきを受けた」と、異邦人は正しく理解し、聖書の神を恐れるのです。

 これは、神さまのみこころは人間の不信仰によって妨げられることはない、ということを示しています。イスラエルは、異邦諸国への証し人として、選ばれ、使命を与えられた民ですが、彼らは間違った特権意識をもち、異邦人を見下すようになり、神さまを伝えることをしなかったのですが、それで神さまのご計画が台無しになってしまうのではなく、神さまは他の人を用いられ、みこころを確実に成し遂げられるのです。だからこそ、使命に生きなければならないし、私を用いて下さいと応答すべきです。

 

*では、7章を読みましょう。   

   ・・・最後にお祈りしましょう。