凛と生きる、寄り添い生きる。 | よつばのクローバー

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ツマ19年生、ハハ17年生、ニンゲン45
年生な私の日常♪( ´▽`)

おはようございます( ´ ▽ ` )ノ

先週土曜日に浦和でおこなわれた肥田舜太郎先生の講演を
文字におこしました。とはいえ、途中話に引き込まれてしまい
メモを取る手が止まってしまったり、数字が少々聞き取れ
なかったりしています。ご容赦ください。
原爆が投下されてから66年が経ち、当時のお話を直接伺える
機会というものはとても貴重なことだと思います。

東京電力福島第一原発の事故と広島・長崎に落とされた原子爆弾
とは様々な違いがあるかとは思いますが、目的は違えど人類が
創り出してしまったトンデモないものに、長い間向き合い
生きてゆくという点では、これほど教えていただくことが
多い出来事は過去にないと思います。


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原爆が落とされる年の一年前から私は広島の陸軍病院に勤務して
いた。時の戦争には、負けるとも思わなかったが勝てるとも
思っていなかった。

食べるものもなく戦う武器もない。
東京も大阪も神戸も福岡もアメリカ軍の空爆によって
焼け野原だった。
しかし原子爆弾が落とされるまで、広島には他の種類の爆弾が
一つも落ちなかった。それはのちに書物からわかったことだが、
予め広島に原子爆弾を投下すると決められていて、一般の爆弾を
落とさないでいたそうだ。まさに原子爆弾の効果を確認するために
広島や長崎の人々が人体実験させられたことは明白である。

当時アメリカの一番の敵だったロシアと戦う為、その効果を確認し
優れた核兵器を開発するための行為だった。

いつもの朝なら、軍医で将校だった私は30数名の部下に
朝の訓示をして勤務している時間だが、6.5kmほど離れた村に住む
6歳の心臓弁膜症の男の子の往診に前の晩から行っていた。
無医村だったので勤務時間外に無報酬で往診していた。
お酒を飲んでいたこともあり、その家に泊まりかつ朝寝坊して
勤務に間に合わないとわかり諦めて少しのんびりしながら
その子に注射を打とうとしたまさにその時だった。

爆心地から500m以内は99.8%の人が死亡した。
勤めていた陸軍病院は3人以外は全員即死。
そのうちの一人はまだ岡山在住で存命だが、
何年も入退院を繰り返している。
この方は毛布の片付け中で毛布を窓側に
向けてちょうど広げた瞬間にピカっとなり、
毛布で遮蔽されて助かった。

ピカッと光った途端すごい熱さを感じた。
打とうとした注射器を放り出してとにかく畳に伏せた。
青空に大きな火の輪ができ、その内側から白く小さい
雲の塊ができた。それが真っ赤な火の玉になり雲になって
上へ上へ登っていった。その雲の下は五色に輝く火柱になっていた。
とても綺麗で暫く見とれていた。

爆風の勢いで瓦礫が村まで飛んで来て風圧で飛ばされなからも
どうにかこうにかこどもを引っ張り出して無事を確認し、
自転車を借りて市内にある勤務先の病院へ向かおうとした。

皮膚が焼けただれ這ってくる人が大勢いた。人の流れに逆行して
何とか進もうと試みたが、燃え盛る市内中心部には入ることも
できず、再び村へ戻った。

村に逃げてくる何万という人々をたった4人の医者で診た。
何もできない。死んだことを確認するだけ。
名前や性別がわかればそれを登録する。
3日経った9日の朝、初めて火傷でない死因で亡くなる人がでてきた。
後で急性被爆の症状だとわかる。
髪の毛はとれて、口の中が腐り鼻や口から血を吹いて死んで行った。

それから30年、はっきりした原因がわからずに診続けていた。
1975年に初めてアメリカに渡って内部被爆によるものだとわかった。
(ここの数字がはっきり聞き取れていません。ざっくりとらえてください)
広島ではおおよそ70万人が被爆、その日に7万人が亡くなり、
最初の年に21万人がなくなり、今日までに21万人が亡くなり
今生きている人は21万人くらい。



福島で被爆した人の中から病気になる人が必ず出る。
今のままではその時に放射線障害を診察できる医者がいない。
何度診ても病気の診断がつかない。原爆ぶらぶら病は仮病としか
見られずに自殺していく人が何人もいる。

あと20年は放射性物質の漏れは止まらないだろう。
元々通常運転時から許容値は漏れている。
原子力で安全に発電できる配管や装置などは元々存在しない。

日本のガン統計は、県単位でしかない。
日本の乳がん患者が増えているのは放射線の影響があると思う。

あんた方明日にでも荷物まとめて逃げろって言って何人できるのか?
できない人が大半のことをテレビや公の場で言うなんてきちがいだ。

できるだけ放射線に負けないように、寿命いっぱいまで生きられる
ように医者としてずっと被爆した患者さんたちに寄り添ってきた。

毎日の排便、睡眠、基本的なことをしっかりやる。
実はこれが意外と難しい。
親からもらった放射線に対する免疫力を最大限に生かす。
医者でも薬でもなく、自分の命は自分で守るんだと言うこと。

こどもの手本になる生活を親が見せていくこと。
そのくらいの根性がないと放射線には勝てない。
被爆者は悪くない。悪いのは東電なんだ。
堂々としていればいい。

たくさんの被爆者と共に生きてきて、その言い付けを
守った人は長生きしている。
誰もが努力すればできることだけを言っている。

アメリカでは放射線の話をすることさえできない。
政府や軍が統制しているから。
日本はまだまだ情報が取れる。
福島の人々が困難に直面した時、相談にのったり
受け皿になったりできる人になってほしい。

今、このことについて話せるのは、もう私しかいない。

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大半の方たちが今回の原発事故を自分のことのように心配し
気遣い、危機感を持って対応してくださっていて本当に心強いし
救われる思いがします。
しかしながら、悪意がないのかもしれませんが、あまりに過激な
物言いをするネット上の書込みなどを目にすると、気にしまいと
思いつつも傷ついている自分がいたりします。

そんなモヤモヤを見事に叩き切ってくださった先生の
「被爆者は悪くない、堂々としていればいい。」
というお言葉がどれだけ私の心を楽にしてくれたことか。
有難くて涙が出ました。

放射能からできるだけ遠ざかり、食べ物に気をつけることが
最善の対処方法だということは、もはや事故から9ヶ月近く
経ち、浸透してきていることです。
しかしながら現実の生活を考えたとき、わかっていても
決断できない人がほとんどなのだということを、どうか
理解してほしいのです。

避難できない人でも自分にできることは何でもやりたい
とお考えの方も多いと思います。
避難に対する支援と同じく、残る方々への支援や共感も
大切にしていかなければと肥田先生のお話を聞きながら
思いを新たにしました。


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5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会さいたま支部の活動で
今回の講演を聞くことができました。代表の西内様はじめ
皆様のご活動に深く敬意を表します。ありがとうございます!