【今週の暗誦聖句】

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブの手紙 1章12節

 

【今日の聖句】

「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。」イザヤ書 30章18節前半

 

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」使徒の働き 15章11節

 

【おすすめ】

 この4週間、一礼拝者としてどこの教会に集わせていただこうか、と祈り考えておりましたが、JECAの他関東地区の教会(東、西、北)に行かせていただくことにしました。本当は南関東地区の教会にも行きたかったのですが、1回目の日曜日は土曜日から体調を崩し、オンライン礼拝となってしまいました。オンラインで礼拝をささげることの難しさも体験できたことは良かったのかも知れませんが。

 

 東と北は遠いということもあり車で行きましたが、西は電車と歩きで行ける教会、しかも以前みなみ野教会に集っておられた姉妹が集っておられる教会に行くことにしました。人生の大半を教会に住んでいる私(神学生時代も会堂はすぐ隣り)にとって、教会に「通う」ということはとても新鮮でした。知らない地で、(ほぼ)知らない方と共に、しかし私たちを知ってくださっている神を礼拝できることは心踊ることでした。が、それだけではありませんでした。

 

 電車に乗って周りを見渡し、また道歩く時にすれ違う人を見て、そのまま通り過ぎる自分に、主イエスが語られたあの「善きサマリヤ人」(ルカ10章)に出て来るレビ人や祭司の姿を見たからです。「どうしたらこの方達に福音を伝えられるだろうか」との思いを抱えてはおりましたが、それも「自分は正しい思いを持っている」と自分と神への言い訳をしているに過ぎませんでした。

 

 福音を宣べ伝えるために大切なことは、「どうしたら(方法)」ではなく、「自分がどのような存在とされているか」を深く知ることだと思わされています。それは私が行かせていただいた教会で昨日語られた礼拝メッセージでも言われていたことですが、私がいかに神のあわれみを受けているか、救われたことも「私が信じたから」以前に、神の一方的な恵みがあったからであることを深く知ることにあるのです。

 

 主は今も変わることがない恵みを、それも豊かに与え続けてくださっている。そんなことを知る一月でした。それと同時に、このいただいた恵みとあわれみは、使徒の働きで言われている「あの人たち」にも、私の周りにいる「この人たち」にも向けられている。そんなことをもっと深く知って分け与えるこれからの人生であったらと願わされました。

 

 

※なぜか「善きパリサイ人」となっておりました。正しくは「善きサマリヤ人」でした。