私は1993年から2000年までドイツに住んでいました。そのうちの5年間(1995〜2000)はドイツの神学校で学ばせていただきました。ドイツ語もほとんどできず、ドイツ語の勉強をしているのか、神学をしているのか分からないような状況でした。

 しかし神学校に入って3年目、言葉もだいぶ覚えて一緒に学ぶ人たちの気持ちも何となく理解できるようになりました。これは私の誤解だと思うのですが、自分だけ違う目で見られているような気がしました。「どうして自分だけ」と心の中で、周りの人たちに対する不信感がつのって行きました。

 ドイツ人になれるわけでもなく、かと言って自分が日本人であることが何なのかも分からず、次第に自分の存在意義が失われて行き、鬱的になりました。死にたいとは思わなかったのですが「このままでは死ぬ」というところまで追い詰められて行きました。クラスメートは私の他に13人いましたが、彼らと会話をすることを避け、他の人たちにあっても目を合わせず、一人で泣いていたり、呆然と座って過ごす日が続いていました。

 そんな中、外をぶらぶらと歩いていると、施設で会計を担当している人から声がかかりました。「日本から献金が届いているよ。あとで取りに来て」ということでした。その言葉を聞いた時、少し緊張して、いろいろな思いが硬い結び目になっていたような心が綻んだような気がしました。献金をいただけたのは当然感謝だったのですが、それ以上に「ひとりじゃない。祈られている」ということが分かったからでした。

 最近、同じような体験をしています。野菜に関しては数日前に書いたことですが、やはり献金をいただいたり、メールをいただいたり。涙が溢れて来ました。疲れた心に、そっと主が手を触れてくださったような感じでした。

 私たちの主は「受けるより与える方が幸いです」と言われました。受けるばかりで与えるに乏しい私であることを申し訳なく思うと同時に、私もまた祈り与える人に日々変えていただけるよう願っています。一人悩んでいる人のために祈り、手を差し伸べることができるように、その人の元に駆けつけるために足を用いることができるように。