不安という感情は、誰もが感じる感情です。不安とは、次に起こることに対する危険の判断や緊張、どうすればよいのか悩むことで生ずる感情が不安です。しかし、この不安感情は、すべての感情の中で最もコントロールがきかず、人の判断力を狂わせ冷静な判断ができない「心理的視野狭窄(考え方が狭くなった状態)」に陥ってしまうのです。そこで、平常心の鍛錬が必要となります。平常心とは、感情にとらわれていない状態です。

 
役者は、役柄への感情移入が過ぎると演技がオーバーになりすぎるので、冷静さを保ったうえで役柄に思いを寄せると言います。その理由は、平常心でないとマインドのコンディションをうまく保てず、周りが見えなくなってしまうからです。興奮したり落ち込んだりしても、自分の気持ちを平常に戻し、自分軸をニュートラルに保つことが、物事を見たり考えたりする上で、良い状態なのです。なので、その平常心を保つためには、ヨガをする、掃除をする等、自分なりの「心の整理法」をもっておくと良いでしょう。

 

 

 剣術に必要な心の修行が「円明」

 

 

宮本武蔵が若い武士に「 武道とは?」と尋ねられた際「円明」と答えました。 畳の縁を指さし「そのへりを渡ってみよ」と武蔵は言った。言われた通りに、その武士がへりを渡り終わると、今度は武蔵が次々と質問を発し始めた。

 

武蔵 一間(1.8m)の高さでも、そのへりが渡れますかな。

武士 そんなに高くなっては、むずかしかろうと思われます。

武蔵 では、幅が三尺(90cm)もあればどうかな。

武士 幅が三尺もあれば、たとえ高さが倍になっても、渡れると存じます。

武蔵 しからば、姫路城の天守閣の屋根から、増位山の頂上へ、およそ一里の長さに三尺幅の手すりなしの橋をかけた場合は、いかがかな。

武士 到底、渡りえない。

武蔵 剣の修行についてもこれと同じことが言えるのだ。畳のへりを渡るのはやさしい。しかし、高さが一間にもなれば非常に難しくなる。それでも、幅を三尺にすれば渡ることはできるが高さを天守閣と増位山を結ぶところまで引き上げれば、だれでも尻込みするだろう。過失を恐れて臆病心が生まれるからだ。

 

つまり、武蔵は「畳の縁を歩いている心を持ち続けたならその人は武道の達人なのだ」と言ったのです。武蔵は、その剣の心を「円明」という言葉で表わしました。円明とは、自己と外界が円満に調和した境地に達して明らかに悟ること。宮本武蔵が開いた円明流は、この言葉が由来といわれている。

 

「自然体」は最強の身構え・気構えである

 

「無念無相(むねんむそう)の打(うち)という事」 

『五輪書』(水の巻)

 

「無念無相」とは、何もなく、無になって相手にあたるということです。 敵も自分も同時にうち出そうとする場合には、作戦計画を考える時間はありません。考えてたら死にます。無意識に自然体で打ち込まなければならず、そこに迷いがあってはならないのです。 

 

現代の日本においても切羽詰まったときに、あれこれと考える暇はないでしょう。そんなときには、無心になって、自然体で事にのぞむ姿勢が必要です。そこで、生きてくるのが、毎日鍛錬を欠かさないことです。「万里一空」といったところでしょう。この言葉の語源は宮本武蔵が著した武道書『五輪書』に由来します。「万里一空」とは、一つの目標に向かって努力し続けるという意味があり、「万里」は非常に遠い距離、「一空」は一つの空を指します。本来は、どこまでいっても世界は一つの空の下にあるという意味でしたが、その後、一つの目標に向かって努力するという意味として広まりました。

 

ですから、苦しみを減らして幸せに生きるために大事な平常心が、日頃の鍛錬(エクササイズ)で少しずつでも身についてくるなら、不安が消え去り、心の平安が自然に訪れるでしょう。