藤原定家の書の特集。
8月6日(日)まで、東京国立博物館の本館2階の常設展で行われていました。
■藤原定家とは
「新古今和歌集」や「小倉百人一首」の選者で有名な藤原定家(1162ー1241)。
平安文学の写本や、歌論や歌集。宮廷の記事など数多くの文章を今に残しています。
実は彼の文字は「定家様」と呼ばれ、すごく癖のある字なのですが、僕は大好きなのです。
その人柄がにじみ出てくるような文字で、現代の21世紀に現れても、友達になれそうな性格の持ち主だと思っています。
それに比べて、定家の父のやはり歌人で有名な藤原俊成の文字は、全く違うのですね。
細くて折れ曲がったり、流れるようだったり、几帳面な人柄の様子。お公家さんの文字って感じがします。
そんな思いを確認に、見てきました。文字は読めないけど、、、
随分と時間が経ってしまったのですが、藤原定家の特集のレポートです。
●《明月記》嘉禄元年秋・同三年夏
▼同作品
作品のキャプションによると、《明月記》のこの部分は、嘉禄元年(1225)7月から9月と、嘉禄三年(1228)4月から6月が混在しているらしいです。定家の晩年、64歳から66歳に当たる時期の日記です。
どうやら伝来の過程で、時期が混じって継がれてしまったようなのです。
面白い文字ですよね、人間臭さがにじみ出てくるみたいです。
本人も「悪筆」だと認識していたそうですが、後世には藤原定家をしたい追従する人が出てきたそうです。
■《明月記》とは
藤原定家の治承年間(1177〜81)から約60年にわたって書かれた日記。
その当時の歴史研究の第1級の資料とされています。
京都の冷泉家時雨文庫が所蔵する《明月記》は国宝に指定。
●《申文》藤原定家 建仁2年(1202)
不遇の状態にあった定家が、昇進の願いを綴ったもの。定家は当時40歳、働き盛りの頃ですね。
■父俊成と定家と息子の為家の文字
●《二条家三卿之芳翰》(日野切、後撰集切、拾遺集切)
3枚の紙が継がれています。
右側が定家の父の藤原俊成の自筆「日野切」。真ん中が伝藤原定家「後撰集切」、そして左側が定家の息子、伝藤原為家の「拾遺集切」。
三代に渡っての掛け軸なのですね。比較すると、親子孫と雖も違うことが明らかですね。
■父 藤原俊成の作品
●藤原俊成《古今和歌集巻五・真名序断簡》(御家切)
▼部分
縦長の整った字を書く、父の俊成の文字。
若い頃の文字らしく、前の「日野切」が折れ曲がった字なのですが、少し流れるような文字です。
右に古今和歌集を、左にその真名序をつなぎ合わせて一枚の掛け軸にしてあります。
藤原定家って、小倉百人一首の選者で特に有名。
歌人としての仕事も偉大です。
しかし、その他にも《土佐日記》の最古の写本。《古今和歌集》の写本。《拾遺愚草》という自撰家集。《熊野御幸記》は後鳥羽上皇の熊野詣に随行したときの日記。これらの仕事は全て国宝に指定されています。
それから最近国宝に指定された《更科日記》の写本も彼の仕事。定家の仕事で、平安時代の文学を今に伝えることができたことが可能になったことも、本当に大きな業績なのでしょうね。
定家の文字は悪筆と言われていますが、確かに癖のある文字ですが。
字は人を表すのであれば、きっと人懐っこい性格の人だと、やっぱり思いました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。