被害者の遺族が、「障害者こそ愛さなければならない」と発言し、ニュースになっていたが、障害者の人権を守るべき家族の立場ともあるべき人間が、このような発言をする事に関しては、違和感を覚える。

何故ならば、人権と言うものは、『人が人らしく生きる権利』なのだから、障害者も健常者も垣根なく生きれるだけの権利であり、誰が誰を愛するかを強制する権利ではなく、それらを押し付ける行為もまた、人権を侵害している発言と言えるだろう。

そもそも、人間は自己に対する”愛”がある。

自己愛があるからこそ、より良く生活しようとしたり、居酒屋で下らない愚痴を吐いたりするもので、それは人間の本能でもあるべき防衛本能から成り立っている。

自分が自分を守ろうとする愛情が生まれるのだ。

そして、人は自己愛への理解を深めてくれる人を好む。

つまり、他人に愛を求めるのだが、それらは時として他人の感情や価値観を歪め、最終的にはエゴになるのだ。

例えDVもエゴの一つとなる。

自分の事を理解してもらえないと思い込み、相手に八つ当たりをするのだ。





人権を本当に提唱するのであれば、愛を他人に押しつけてはいけないし、ましてや他人からの支援を必要としている障害者や障害者の家族ならば、「愛さなければならない」などと、どこかの哲学者が言うようなセリフを吐いてはならない。

愛を注ぐことを強制され、価値観を押し付けられた人は、きっと障害者の事を支援する為に動く気なんかさらさらないであろう。

助けを求めるのであれば、個人に向けたセリフではなく、国に求めるべきだとも思う。

人の善意ばかりを食い物にし、人権問題を提訴する人間は、今回の事件に至った本質的な問題を考えたことはないのだろうかと不思議に思う。

日本の深刻な経済により、障害者施設で働く人間は低賃金出働かされており、自身の生活すらままならない人もいる。

現場で働く人こそ、自分たちが自由に生きる時間を削り、人権を奪われている。

低賃金となれば、植松聖のような人間が集まるのは仕方のない事だろう。

今までも介護施設の職員による殺人や暴行、傷害事件は報道されてきており、そこで働かなくても、誰もがその事実を知っているであろう。



「障害者こそ愛さなければならない」と言う考えがあるから、障害者の人権を守るために、誰かが人権を失う。

まさに、本末転倒である。




相模原市の障害者施設で45人を刺し、内19人を殺した植松聖。

彼に関して推察すると、何者かが(薬物関連の人物)、「人を殺しても精神障害なら死刑にならない」と、植松聖に”空気”を入れた可能性がある。

そして大麻により統合失調症に近い状態だった植松聖は正常な判断が下せず、その事実を信じてしまったのではないかと推察する。

しかし、そこでこれから問題になるのが、先立って手紙に「責任能力はないと判断しろ」との旨の手紙を”書いてしまった事”にある。





それはまさに、自らの計画性を露呈しているに過ぎず、そのような一文を残してしまった人物に対し、責任能力の有無など論点としても上がるはずがないのだ。

ただでさえ、殺人事件による責任能力の有無を証明すると言うことは、一人、二人の殺人事件の次元ですら難しく、大量殺人においてはどんなに責任能力の有無は関係なく死刑となるのが日本の法律である。

当然、植松聖はこれから死刑になる訳だが、死刑を免れる為に、供述を変える可能性が非常に高いのではないかと推察する。

現在、弁護士と接見しているであろう植松聖は、現実の厳しさに驚愕している事だろう。

自らが目指した「障害者のいない平和な世界」など、人が人らしく生きるための人権と言うものが認められているこの世界では、到底叶うはずがない。

ヒトラー思想が降りてきたと言ってはいたが、他人の思想を支配しコントロールしてきたヒトラーと、入れ墨を入れて仕事をクビになり、自身の空想に取り憑かれ大量殺人を働いた植松聖としでは、例え本質的な思想が同じであっても、決して同類にはなれない。

植松聖の思想は、日本の司法により瞬時に奪われるのだ。

植松聖は、単に大量殺人者として、日本の歴史に名を残したに過ぎない。

宅間守と同じに過ぎないのだ。

私は、自身のこのブログで、愛=エゴと明言しているが、まさに植松聖が世界に持った歪んだ愛は、単なるエゴとなった訳だ。

これからの供述の動向が気になるところではある。



人間と言う存在は、愛情があるが故に縛られる。

愛情を求めて生活し、愛情がないと不幸や孤独と言った下らない考えに至る。

孤独を恐れるから結婚もするし子供も作る。

結局は自分自身の事しか考える事ができず、それをあたかも「他人の為」とか「困っている人を救う」と言った大義名分を他人に押しつけているに過ぎない。

死ぬまでの無価値な時間に価値を見いだそうとするあまりに、時には人を傷つけながらも生きるのが人間なのである。

例えば学校でのイジメなんかは、イジメられてる人間を誰も助けない。

何故なら自分が標的にされることを恐れ、孤独を恐れるから。

自分が孤独にならない為なら他人の孤独を見て見ぬフリを平然としてのける。

しかし、周りから嫌われる事や孤独を恐れるがあまりに他人の痛みに共感したフリをし、都合よく生きようとする。

そしてそのエゴから目を逸らし、良いものばかりを見て生きようとする。

例えば、花畑にある花も、道端に生えている雑草も、猫もゴキブリも同じ”命”を持っている訳だが、花畑にある花を賞賛しても、道端の雑草は存在すら気づかず、猫を殺すと「残忍だ」と批判しても、ゴキブリを殺す事に対してはなんら批判を浴びない。

それなのに「平等」と言う吐き気を覚えるような言葉を平然と吐くからビックリさせられることが度々ある。

と、ここまで書くと、私と言う人物像が、性格が歪みきっているように感じてしまったりするのも、エゴから目を逸らしている人間の特徴でもある。

私は、幼い頃、自我が生まれ、気づいた頃から、この矛盾に対し、気づいていた。

最初に考えさせられたのは、テレビで貧困の国や、人々の特集が組まれていた事に対して、だ。

地球上にある物は、誰のものでもないのに、お金を持っている人間がそれを独占し、貧困層が生まれる、と言うことに矛盾を覚えていたのだ。

それならば、独占してる人がいなくなれば、それこそ平等になるのではないか、と考えていた。

今でこそ、非常に稚拙な考えではあるとは思うが、私は4歳にして、すでにそのような考えを持っていた。

孤独を感じるのも、愛を持つのも、全部は人間のエゴなのである。

ほとんどの人が美しい世界で生活している中、汚い世界で生活している人間も数多くおり、「自分より酷い生活」をしている人間なんか、数多くいる。

孤独を感じたならば、自分自身への愛情も、他人(例え家族であろうと)への愛情も、全て捨てればいい。

ただそれだけに過ぎない。