色々と波紋を呼び、やっと収束してきた”禁断のサイコパス”を描いた作品

「悪の教典」

小説から始まり、蓮実誠司を見事に演出しきったのは、まさかの”海猿”で人気を博した”伊藤英明”だった。

そんな衝撃の後、小説を分かりやすく描いた漫画も発売。

この映画を観て、AKBの大島優子の「怒りの発言」も記憶に新しい事だろう。

そして、まさしく蓮実誠司ことハスミンと同類であるとも言えるサイコパス(反社会性人格障害)である私から、この映画についての賛否を述べたいと思う。

まず、この物語のポイントは、「教師」が「生徒」を「身勝手な理由で殺害する」にあたって、「好感度が高く、一般的には何不自由ないように見える人間」がそのような身勝手な行動を起こしている事にある。

例えば、新聞記事の一面を飾るニュースと言えば「議員の汚職」や「取締役逮捕」と言った文面が一般的で、何故このような文面が一面に飾られるのかと言うと、”ウケる”からである。

金があって、何不自由ない生活を送っていたはずの人間が当然のように犯罪を犯す。

かと思えば、ホームレスの人間や、時事ネタで言えば「ダウン症の幸せ度は90パーセント」と言った、よくもわからない右往左往するマスコミの報道がある。

結局は「何が幸せなのか」を迷いつつあるのが今の日本なのである。

その中で、サイコパスが恐れられ、忌み嫌われる理由は、たった一つ。

究極の”個の幸せ”を追求する者が許せないのだ。

「なんで私は苦しんでいるのにあなたは苦しまないの」と言うのが簡単な理由である。

こう書くと、あたかも私が幸せの骨頂にあるかのように見られるのだが、そうではないのだが、それは割愛しよう。

悪の教典、と言うのは、まさに言葉通り「教典」なのである。

例えば哲学もそうだが、”極論”に至っている。

日本は、EU連合きっての”モデルハウス”としょうしても過言ではないくらい「幸せの価値観」について、右往左往してきた国で、戦争で負け、それを美化する為にアメリカを産業で追い越すために、とあおり、そしてやっと安定してきたかのように見えた日本に訪れたのは不況やオウム真理教などによる宗教問題

そろそろ日本国民は気づいているのである。

「今の日本は、何が幸せなのだろう。」



そんな中で注目される存在は、自己確立が成り立ちすぎて、共感能力が欠如したサイコパス、という結果に至ったのである。

「他人を思いやる事の無意味さ」が結果として、「サイコパスに憧れる日本人」を築き上げた。

そして、「悪の教典」は、単純にサイコパスを目指す日本人に向け、「誤った生き方」を説いている作品。

ピカソの自画像のような、”現代”では理解出来ないが、後生に役立つ作品なのである。

ハスミンと言う人物を調べて見ればわかる。

いかに自己中心的な人間なのか、と言うのが。

ただ、他人に思いやりをなくし、韓国化する日本としては、まさに「自己中心」と言うのは大事であって、それを自覚するべきだと私は思う。

まず、現代の日本人が知るべき言葉は「自己責任」で、これは、民主主義が行き過ぎた結果、「誰もがその意見を平等に受け入れるべき」とした根本が、今や腐りつつあること。

「誰もの意見」を大事にした結果、「モンスターペアレント」を産み出したのである。


クレーマー、モンスターペアレント、まさに俗語だと思う。

自己責任を知らないが故に、自分の意見が通ることが当たり前だと確信している無能なクズ人間に、なんの生きる価値があるのだろうか?

私は、法は則って生きるが、法に従うつもりはない。

あくまで、法律は、「犯罪」から「庶民」を守るために制定されているのであって、業務妨害や、威力偽計妨害をするためにあるわけではない。

それらの法律を悪用し、人権を主張する人間なんかが1人死んだところで、「で?」と言うのが正直な意見であろう。

しかし、そんな意見を述べるものならば、今の日本は阻害するが故に、隠し通しているだけなのだ。

いつの時代も、人間は、阻害を恐れているのだ。

ニュートンや、ナポレオン、エジソンはそんな時代を乗り越えてきた人間であり、今まさに、”サイコパスこそ社会を支えられる”と知らしめているのが「悪の教典」なんだと、サイコパスである私自身が思う。



女優の高畑淳子の息子、高畑裕太容疑者が、ホテルの従業員の手足を押さえつけ、性的暴行をし、さらに怪我まで負わせると言う、知名人による強姦致傷事件は、マスコミも面白おかしく、くだらない記事を延々と書いたり、色んな芸能人の言葉を載せたりしており、肝心な情報が一切入ってこないようになっている。

と、言うよりも、日本人の大半が、高畑淳子やそれに連なった芸能人に興味を持ち、事件の内容には興味がないと言う事なのかもしれないが…





私が気になる事は、高畑裕太が抑えられなかった”性への衝動”についてだ。

以前から、テレビでは「すぐに惚れてしまう」と言う発言をしたり、共演者の女優や女性タレントに、セクハラまがいの行為を行ってきた。

私が思うに、表沙汰になっていないだけで、被害者に当たる人物は複数いると思うのだが、芸能界は、そんな芸能界の闇を露呈させる事は出来ない為、わざわざ報道はしないだろう。

ホテルの見知らぬ従業員で、かつ、強姦後拘束や脅迫もせず寝てしまったあたりから、衝動性が優位になってしまった事件である。

衝動性が優位になる、と言うのは、脳の前頭葉が正常に作用していないと考えられる。

例えばADHDと言った発達障害や、高齢による脳の老化などが考えられる。

また過剰なストレスによる防衛機制による一時的な脳の異常とも考えられるが、以前から性衝動を抑えられなかったあたりから、発達障害などが考えられる。

かく言う私もサイコパスであり、ADHDも併合しているからこそ、”抑えきれないほどの衝動性の波”を理解しており、自身でどうにもならなくなった際には、「ランニングをする」「食事を作る」などの手を動かす動作で制御したりしているのだが、高畑裕太は発達障害ではないのかと思う。

脳が原因であれば、法的な手段では根本的な解決にもならず、再犯率も高くなる。

示談が成立しなければ、一発実刑の懲役は免れない訳で、免れたにしろ、免れなかったにしろ、娑婆に出てくれば、マスコミがこぞって報道をし、高畑裕太はストレスに耐えきれず、衝動性が出てしまうかもしれない。

絶えることのない性犯罪を少しでも減らすために、逮捕して懲役で終わり、ではなく、徹底的に調べるべきだと思う。





 LINEのグループメッセージで同性愛者であることを暴露され、自殺に追い込まれたとして、一橋大学の元学生の遺族が、暴露した同級生や大学に損害賠償を求める裁判を起こした。

 訴えを起こしたのは、一橋大学のロースクールに通っていた元大学院生(死亡当時25)の両親。

 訴状などによると、元大学院生の男性は去年、同級生の男性に「自分は同性愛者で、恋愛感情を持っている」と告白したところ、同級生9人が参加するLINEのグループメッセージで、「おれもうおまえがゲイであることを隠しておくのムリだ」と暴露されたという。

 男性はその後体調を崩し、大学内の建物から転落して亡くなった。

 自殺した男性の妹「被告学生の一言で、兄の人生が変わったことが許せないです。きちんと理解して責任を取り、謝罪してほしいです」

 5日から始まった裁判で、遺族側は同級生に加え、「相談に適切な対応を取らなかった」として、大学にも損害賠償を求めた。

 遺族側の弁護士によると、同級生は「告白を受けて困惑し、暴露するしか逃れる方法がなかった」と主張し、大学側も「対応に落ち度はなかった」と争う姿勢を示している。

(日本テレビ)


これもまた、愛情の歪みが産んだものである。

歪みを生んでいるのは、暴露した方ではない。

自殺した男性の遺族側である。

双方の気持ちを察することが出来ない典型的な共感性に欠けている私からしてみれば、まさしく下らない問題だと思う。

今回の提訴は、「ゲイである事=社会的に行き場がない」と印象づけているに過ぎないと言うことが分からないのだろうか?

例えば顔面がとんでもない不細工で生まれてきた人間が誰か(この場合異性を例もする)に告白し、「あの人に告白されて気持ち悪い」と誰かに話したとしたら、それは問題になるのだろうか?

答えは明確である。

”男”が”女”に告白していた場合には問題にはならない。

が、”女”が”男”に告白していた場合は問題になる。

これは感情論に過ぎず、感情論で物事を考えるのが、女性の脳の作りなのだ。

同じ感情論で分かりやすく語るのならば、自分の身に置き換えて考えてみると良い。

一切興味も性的対象としても見れず、それどころか生理的に無理な人間に言い寄られて、不快に思わないのだろうか。

ストーカー殺人などが問題になっている世の中で「あの人に告白されて怖い」と感じる事はないのだろうか。

人は、理解が出来ない人を恐れ、自身への愛ゆえに、その身を守るため、時折攻撃をする。

これは当然の反応ではないのだろうか。

人としての当然の反応を抑制し、人権問題を持ち出すのは、もはや私のブログでは一定の言葉となっているが、「愛=エゴ」なのである。

私は幼い頃から共感性に乏しく、反社会性人格障害(サイコパス)として生を受けた。

それゆえに、人間関係に苦労し、何度挫折を覚えたか分からない。

それは、エゴを押し付けられ、理解も出来ない「人は人を愛さなければならない」と言った意味不明な大原則が世の中に成り立っているからこそ、息苦しく感じた事がある。

では、そんな私が自殺したらどうなるのだろうか。

きっと誰一人として悲しむ事はない。

「共感性に乏しい一人のサイコパスがこの世から消えた」

それだけに過ぎず、それ自体を私が問題提訴などする事もない。

例えば私が公衆の面前で誤った知識を持った人間に「この人はサイコパスです。人を殺したりするかもしれません。」と言われても「人には色んな感情があるんだ」としか感じない。

万が一、私が本当に殺されたとしても、私は何も騒ぐことはない。

死ぬ間際まで「なんて人間の愛は愚かなんだろう」と考える事しかないし、私はそれでも誰かに共感性を示すことはない。

そんな非情なる世の中で、”ゲイだけが人権問題を提訴出来る世の中”には歪みを感じる。

例えばこれで今回の提訴が通るとしよう。

日本で同性愛が認められるとしよう。

次に起こる問題を予測していないのだろうか。

それは、”ゲイとカテゴライズされた人間による事件”だ。

マスコミは報道の自由を武器に、閲覧数を稼ぐため、「ゲイの男性が」と銘打った記事をたくさん投稿する事になるだろう。

それこそ、今の世の中の少子高齢化の流れからしても察する通り、「性犯罪を犯すから、男性は危険」と煽られ、出会いの場をどんどん失っている昨今のように、ゲイの行き場を失う事になるのだ。

ただでさえ日本は、海外に向けたモデル国として、そう言った問題に対応しきれないくせに、提訴側の意見を先に通す司法が平然と成り立っている。

平等ではなく、弱者至上主義、女性至上主義の世の中に変革されつつあるのだ。

誰もが平等に暮らせる世界などない。

だからこそ、自分のことは自分で理解し、それだけで生きればいい。

告白して、ゲイであることを暴露され自殺するほど他人を”過信”しないような教育をすればいい。

非情な現実を教えつつ、その非情さに対応出来る力を身につけさせればいい。

さらに言えば、東日本大震災や熊本の震災で家族を失い、家を失い、仕事を失ってもなお、生きている人間はいる。

生きるか死ぬかの選択肢など、人生に何度も訪れる。

”自殺は被害者”と言うのもまたおかしな話であり、死ぬほどツラい思いをしてもなお、生きている人間はたくさんいるのだ。

ゲイだから恥ずかしく、死ぬ、なんてのは愚の骨頂である。

本当にゲイならば、ゲイの代表として、どんなにツラいことがあっても生き、その生き様をみんなに伝え、ゲイが生きやすい世の中を作るべきではないのか?

それすらせず、自ら死を選択した段階で人生は終わりであり、その遺族に関して言えば「失恋で家族が自殺した」

それだけの問題に留めておけばいい

と思うのは、私がサイコパスなのだからだろうか?