相模原市の障害者施設で45人を刺し、内19人を殺した植松聖。
彼に関して推察すると、何者かが(薬物関連の人物)、「人を殺しても精神障害なら死刑にならない」と、植松聖に”空気”を入れた可能性がある。
そして大麻により統合失調症に近い状態だった植松聖は正常な判断が下せず、その事実を信じてしまったのではないかと推察する。
しかし、そこでこれから問題になるのが、先立って手紙に「責任能力はないと判断しろ」との旨の手紙を”書いてしまった事”にある。
それはまさに、自らの計画性を露呈しているに過ぎず、そのような一文を残してしまった人物に対し、責任能力の有無など論点としても上がるはずがないのだ。
ただでさえ、殺人事件による責任能力の有無を証明すると言うことは、一人、二人の殺人事件の次元ですら難しく、大量殺人においてはどんなに責任能力の有無は関係なく死刑となるのが日本の法律である。
当然、植松聖はこれから死刑になる訳だが、死刑を免れる為に、供述を変える可能性が非常に高いのではないかと推察する。
現在、弁護士と接見しているであろう植松聖は、現実の厳しさに驚愕している事だろう。
自らが目指した「障害者のいない平和な世界」など、人が人らしく生きるための人権と言うものが認められているこの世界では、到底叶うはずがない。
ヒトラー思想が降りてきたと言ってはいたが、他人の思想を支配しコントロールしてきたヒトラーと、入れ墨を入れて仕事をクビになり、自身の空想に取り憑かれ大量殺人を働いた植松聖としでは、例え本質的な思想が同じであっても、決して同類にはなれない。
植松聖の思想は、日本の司法により瞬時に奪われるのだ。
植松聖は、単に大量殺人者として、日本の歴史に名を残したに過ぎない。
宅間守と同じに過ぎないのだ。
私は、自身のこのブログで、愛=エゴと明言しているが、まさに植松聖が世界に持った歪んだ愛は、単なるエゴとなった訳だ。
これからの供述の動向が気になるところではある。