親しい先輩二人と、富山で懐石を楽しんだ。

富山の地形は、3000メートル級の立山から、数十キロの富山平野を経て、水深1200メートルの富山湾へと繋がる特異な地形だ。

この落差のある地形の恵みが、豊かな水と、その水が育む豊かで多様な命の循環を産み出している。

つまり、海の幸、山の幸が豊かで、料理もお酒も美味しい。

当然、話も弾み、いろんな話題で盛り上がったが、宴もたけなわの頃、K先輩が面白い考えを披露してくれた。

3.11を受けて、新しい社会を創ろうとするとき、現在のようにお金が絶対的な価値尺度となってしまうような資本主義体制では、社会は改善されないのではないか、というものだ。

もちろん、共産主義や社会主義の方が良いと言いたいのではない。それらが上手く合わさったような社会体制だ。

先輩曰く、「人間はみな裸で生まれ、煙となって死んでいく。それなのに、人間社会は生きるに連れて不平等が拡大し、死ぬまで安心できない。」

続けて曰く、「だから、生まれてから高校を出るまでと、例えば80歳から死ぬまでは、みんなが平等に安心して暮らせる社会にしたらいかがか。」

「つまり、18歳までは教育の機会を平等に保証し、資本主義社会で生きるための環境を整える。そして、資本主義原理のもとで各自が夢に向かって挑戦しながら戦う。しかし、80歳になったら、それまでにできた格差をご破算にし、財産はすべて国が没収。その代わりに、それ以降、死ぬまで、すべての人に安心して暮らせる生活を保証する。」

人生の揺りかごである18歳までと、墓場前の80歳以降の人生を安心して暮らせるようにする事で、私たちの人生に対する価値観も大きく変わり、より活性化しつつ、安心できる平和な社会が出来るのではないか。先輩の考えにとっても感動した一夜だった。


新しき アイデア一つで くるりんぱ
今回の震災では多くの方が自宅を失ったり、自宅に帰れなかったりして、避難所での生活を余儀なくさせられている。もし、テレビで見る避難所となった体育館の中にいるのが自分だったら、と思うと、切なさが込み上げてくる。

致し方ないこととは言え、体育館という場所での集団生活は、さぞ辛かろう。歳をとれば取るほど、辛さが身にしみよう。誰しもが、しないで済むならしたくない経験に違いない。

それにも関わらず、報道で知る限り、それに私のわずかな関わりで知る限り、避難所の人々は、助け合い、支え合って、避難所暮らしを送っていらっしゃるように見える。その奥にあるだろう自己犠牲と忍耐強さと和の精神に頭が下がる。

建設中の仮設住宅も少しずつ完成し、やがては避難所よりはプライバシーを守られる空間が保証されるだろう。原則的には、それは良い方向には違いない。ただ、一人暮らしのお年寄りなどの中には、集団から孤になることに、却って不安を覚える方がいらっしゃるかも知れない。対応の難しい問題だ。

避難所の人々のことを考えていて、ふと、難民とどう違うのだろうと疑問が浮かんだ。“難民”と“避難所の人々”。同じような苦労を強いられているという点で、仲間には違いない。

2001年1月2日、正月2日の朝、私はパキスタンの北部辺境州の州都ペシャワールにいた。アフガニスタン難民への教育支援の調査が目的だった。


難民キャンプというのは、言って見ればめちゃめちゃ環境の悪い野営場のようなものだ。

上水設備、下水設備、道路、電気、ガス、居住棟などのインフラ整備がほとんどないところにテントを張って何千、何万の人々が生活を余儀なくされる。

アメリカの空爆を逃れ、命を守るために決死の逃避行をしてきた先の難民キャンプ。しかし、そこは希望と絶望とが交差する入口だ。

津波や原発を逃れ、命を守るために決死の逃避行をしてきた先の避難所。しかし、そこにも希望と絶望とが交差して待っているに違いない。

“難民”のイメージには悲壮感や危機感が漂う。それに対して、“避難所の人々”のイメージからは悲壮感と危機感が薄まる。

どうして“避難所の人々”を“難民”と呼ばないのだろう。私たちはもっと避難所の人々の現実を、悲壮感と危機感を持って共有できる言葉を使う心遣いをしても良いのではないだろうか。


難民と 呼ぶも一理の 支援塚
5月7日、気仙沼に入った。市役所を通り過ぎて、道路が大きく右へカーブする。そこで目の前に飛び込んできた光景に、目を疑った。そこは以前の気仙沼とは別世界だった。

前回、気仙沼を訪問したのは、1年あまり前の2月。外は寒かったが、迎えてくれた気仙沼の皆さんの歓待は温かかった。

研修会の昼休み、港の市場に行った。豊かな海産物が並んでいた。見て回るだけでも十分楽しい市場だった。

ところが今回、車窓から見えるのは、ただ、ただ、瓦礫の山。道なりに車は進み続け、目の前ではどこもかしこも瓦礫の山が累々と連なる。背筋が寒い。

暫くその風景を見ているうちに、2002年4月にカブールに初めて降り立った日の風景を思い出した。

カブール空港は滑走路以外、飛行機の残骸で瓦礫の山だった。街に入ると、レンガ作り、泥作りの街並みは、文字どおり瓦礫の山だった。

気仙沼に来て、まさかカブールの街並みを思い起こすとは思わなかったので、驚いた。それにしても、ヒドイ。

戦災と震災、どちらも、もし自分がそこに住んでいたら、と考えると、背筋がぞっとする。

23年の長きに渡る戦争の傷跡と、たった1時間あまりの津波の傷跡とがあまりにも似通っていることに、改めて津波の破壊力の大きさを思い知らされる。

津波を、一方的な戦争被害と捉えても良いのではないだろうか。多くの人が命を落とし、愛情の絆を断ち切られる。たくさんの家族が家を失い、職を失う。そして、街には遺児、孤児が激増する。

平穏な社会の、瞬く間の生地獄への転換。


震災に 戦災を見る 瓦礫かな
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