藤田新  -3ページ目

「Prayer」という新しい作品

6月7日から12日まで、長崎の浜屋という百貨店で個展をします。
もっとも美術の業者さんに作品を預けて展示してもらうもので、私は立ち会いません。
父の作品も一緒に展示するそうです。


新しい作品も展示してもらいます。


これは去年の個展に出した作品で、「羽衣」というタイトルを付けました。
 

 

今年、同じ大きさで新しい技法で新しい作品を作り「Prayer」というタイトルにしました。
 

 

「Prayer」は「Livin' On a Prayer」からです。

YouTube のトップには、思い出すと以前ネットのニュースから飛んで見たことがある動画が急に出て来ますが、そうした動画です。

 

 

 

このおじさんが何故この歌を選んだのか気になり歌詞を調べてみました。


living on a prayer 歌詞

 

歌詞は貧しい若いカップルの話しですが、「living on a prayer」 は「祈りながら生きてる」という感じのようです。
計算ではなくひたむきに・・と、おじさんの気持ちが分かる気がします。
それは一緒に歌っている人達の気持ちのように感じます。



でも同時に全く違うことが頭の中に浮かんで来ました。

身近に新型コロナで亡くなった人を幸い知りません。でも、コロナの混乱が無ければ亡くなることはなかっただろうと思う人はいます。

時々ふとその人を思い出します。そして祈っています。
祈りながら出来ることをしようと 思います。

 

 

 

 

美術のトレンドは「知的な遊戯」と言われます。

でも普通の人々は違う場所で生きています。

 

 

 

 

東山魁夷の海

湯気のように揺れる感覚を考えています。


去年のことですが、奈良の唐招提寺にある御影堂で鑑真和上像と東山魁夷の障壁画を拝観する機会がありました。

作品は展覧会の会場で見るのと印象がまるで違います。


 
美術館

 
御影堂

決定的に違うのは、襖の向こうに鑑真和上の乾漆像があることが襖の閉まって見えなくても感じられることでした。
そして、庭から入る光の所為なのか、この襖と見ている畳が同じ場所でつながっているからなのか、美術館では「作品」として見えるし見てしまうものが、御影堂では作品と呼べるものではなくなって、何かを表現してあるものにも見えないのです。
ただ、海が広がっています。

海の絵は入ってすぐの横長の広間にL字になっています。短いL字の辺にあたる部分の一番隅が浜辺になっていますが殆ど視野に入りません。
お堂に入って目に入るのは、柱の部分がカットしてあって右にまだ少し続きますが、ほぼこういう光景です。

 


ただ海が広がって、波が打ち寄せています。


そして、畳が波と一緒に揺れるように感じます。


もし水平線が描いてあれば揺れて感じることはないような気がします。

水平線はモーツアルトの音楽を平らに感じたように、波の動きを遠目に動かない基準線に内包させるように作用して「海の絵」として安定させてくれます。

美術館では床や天井の硬質な構造物が額のようになって「海の絵」として視覚に作用していたように感じます。

 

 

寺院の襖という建物の空間の一部でありながら曖昧に独立した状態の絵は建物の空間に同化して影響しています。

もしかすると西欧の人を「不調に陥れる」かもしれません。


作者の制作が向かっている場所は、海の風景画を描くということではなく、もちろんその巧拙でもなく、ギターの歪んだ音に共鳴してしまうような、私達の心の深層のように感じられます。

 

それが国民画家と称される所以なのかもしれないと思いました。
 

 

 

 

ギターの歪んだ音

湯気のように揺れる感覚が他にあるのか考えています。




こういう記事がありました。

マーティ・フリードマン「日本人は何歳になってもギターの歪んだ音を受け入れることができる。それは三味線のおかげ」

インタビューがこれです。

 



記事は
マーティ・フリードマン(Marty Friedman)は米国のインタビューの中で、なぜ日本のトップ20の曲にはアメリカよりも歪んだギターが多く使われているのかについて持論を述べています。「日本人は何歳になってもギターの歪んだ音を受け入れることができる」と言い、マーティはすべては三味線に帰結すると考えています。Rick Beatoのインタビュー番組より。


三味線より驚いたのはこの部分です。

その後、マーティは、自分が子供の頃、30代以上の人たちが歪んだギターの音に反発していたのとは対照的だと言い、「ここ(日本)では、80代の人たちが歪んだギターの音に完全に楽しんでいる。それはおそらく、日本の伝統的な音楽と三味線のおかげだろうね」と付け加えています。

インタビューの自動翻訳では 
「30歳以上の人を不調に陥れた」と出て来ます。  「不調に陥れ」は凄いです(笑)


気持ち悪いのでしょう(笑)



1962年生まれのマーティ・フリードマン氏が子供の頃は50年くらい前でしょうか。私は大学生でしたがそのころアメリカの30歳以上の少なくともかなり多くの人はギターの歪んだ音が嫌いだったなど、想像も出来ませんでした。

 

そう言えば日本発で世界的にヒットするロックがあると聞いたことがあります。

 

そういうことだったのですか~!



そしてその傾向は今も続いている、ということです。

 

 

 

ギターの歪んだ音の例

 

 

 

マーティ・フリードマン氏は日本人が持っている三味線の音の伝統が、ヘビメタ系の自分の音楽が日本で受け入れられる素地だ言っていますが、揺れる感覚をいつでも持てる者からの印象は、普段は欧米のように振舞っていて、それが良いことのように思い込んでいるものの、私達の世界の深層がこういう形で露出してしまったように感じられます。

 

 

 

それから、ギターの歪んだ音を聞いて気持ちが悪くなることで思い出したことがあります。


10年前にブログしたのですが、ある告別式に参列した時、読経の後にモーツアルトのレクイエムがBGMで流れました。

その時、モーツアルトの音楽は真っ平らに聞こえました。

 

メロディーを作っている音の高低の移動が、その移動を支える基準になるような平らな面のようなものを前提にしていることを感じました。

欧米の人達はこの基準が崩れることに耐えられないのです。

 

 

マーティ・フリードマン氏には今度、同じ楽器として興味がある三味線だけでなく、地唄やお経や祝詞を聞いてもらいたいものです。


ヘビメタが壊そうとしていたものが何かを自覚して欲しいと思います。

 

 

 


 

 

遺影の表情の続き

去年、遺影の表情が変わって見えるとブログしましたがその続きです。

気付いたことがあって、変わって見えることはあれから直ぐなくなりました。

 

奇異な言い方ですが、祈ることをを聞くことに変えてみました。

普通何かを祈る時、声にすることは無くても心の中で言葉を浮かべています。

そうではなく、聞いてみようと思いました。

 

聞く対象があるわけではありません。

勿論何も聞こえません。

 

ただ驚いたことに、座って目を閉じて上体を真っすぐにすると少しの間があって、下から湯気のような、ゆらゆらと上がっている煙のようなものが身体を通っていくのが感じられました。

しばらくその感覚の中にいると身体全体が煙に同調して揺れていくのが分かります。

 

その感覚の後、遺影はいつも同じように穏やかに見えます。

 

 

 

トランスの自発動は「エルビス」の映画に出てくる振動のような動きで、それとは異質のゆっくりした動きです。

 

 

 

何故か急に、小林秀雄の「モーツアルト」という著作の中で、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然モーツアルトのシンフォニーのテーマが頭の中に鳴ったと書いてあったことを思い出しました。

 

そしてこの揺らめくような感覚はどこかで聞いたことがあるのか考えてみました。

強いて言えば三味線の無い地唄のようなものです。

 

 

小林秀雄の文章はこの後、『その時、何を考えていたのか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。』と続きます。

 

ふと 小林秀雄がモーツアルトではなく地唄を頭の中で聞いていたら、絶望とか孤独は消えてしまったのではないだろうか、と思いました。

 

 

 

 

 

交換様式D

力と交換様式」  柄谷行人

 

「エルヴィス」の映画への同調圧力でトランスがどういう形かで現れると思っていると、先日偶然新聞で見た匿名の書評にこの本が出ていて、そこで交換様式Dはオカルトと断言してありました。

あの柄谷行人氏がオカルトを書いているという話しに驚いてネットで検索すると下の図を見つけました。

交換様式Dはやがて来る、或いは来つつある将来です。

 

 

引用はここからです。

ありえたかもしれない「たてヨコDAO会議#3」

 

本は昨年10月に初版ですが、図そのものは10年前には出ていたようで、本を読んだ人にとっては今更トランスではないかも知れません。


むしろ本が「エルヴィス」へ影響したのかもしれません。

 

図の中 A→B→C→D と反時計回りに回っていく発想が凄いです。

 

龍樹的に考えれば、横方向の「不平等↔平等」は「言語↔非言語」で、B、C領域から見てA、D領域を言語化してオカルトと呼んでしまうのは仕方ありません。

 

 

日本には日常的にトランスがあるようにA領域が残っています。

それが良いことか悪いことかは人それぞれです。世界でも稀有に残存するAはB.Cを飛ばしてDに行く可能性がある反面、書評のようにDとAを同じように見て同じように否定する圧力もA領域が残っている日本特有の現象として続くように思えます。

 

それに、Dを認めてしまえば、明治時代から始まる啓蒙ビジネスモデルは崩れてしまいます。

横方向が「不平等↔平等」になっているように知識の量が「不平等」を作り、その落差は商業化しています。

 

 

本を買いましたがすごく厚くて読むのが大変です。でもD領域なら読まなくても図を見て感じることが出来れば到達点は同じはずです(笑)

 

 

 

 

 

 

日常のトランス

さらに『エルヴィス』の続きを考えています。

ポピュラー音楽を聴いて熱狂するのをトランスとは思ってもいませんでした。
中学時代にビートルズが来日して、プレスリーはその前ですから、そういうものかと熱狂する映像を見慣れていて特別な意味を考えなかったのかもしれません。
それに、日本の熱狂が本気かどうか分からないような気持ちもありました。

昔テレビで見たことがある古い映像とアメリカのを比べてみます。

 

(4月4日に編集しています。下の日本のロカビリーコンサートの動画は非公開になっていて見ることは出来ないようです。投稿した時リンクを貼っただけでYouTubeとして貼るのを忘れたのを思い出し今日見返して気が付きました。見ることは出来ませんが内容はブログの通りです)

『ロカビリーコンサート(1958年)』きょうの蔵出し

 



この日本とアメリカのコンサートで女性の観客が同じようにステージに上がってしまう場面があります。
日本では0:44あたりに、アメリカでは10:32あたりです。

アメリカの女性はどこかに意識が飛んでしまって訳が分からないような印象がありますが、日本の女性のステージから降りていく様子は「やってやった感」がして、コンサートが終われば散らかした紙テープを掃除して帰りそうです。
熱狂というよりフリをしているだけのようにみえます。
紙テープは分かりませんが、プレスリーのコンサートを知っていて今はこれが流行り、と言っているようです。
そもそも歌っている平尾昌晃さんがそうです。

考えると興味深いものがあります。
精霊と共にいるトランスなプレスリーは意識することなく精霊を表現すると観客も無意識に反応してスーパースターを作り上げ、プレスリーのコンサートを真似た日本の演奏と観客は盛り上がるものの、動機を欠く真似の盛り上がりは消費されると忘れられます。

しかし日本にトランスの素地がないか、と言えばそれは違うように感じます。

例えば個展で絵を見て手のひらに金粉のようなものが現れる人はたくさんいます。
圧倒的に女性が多いのですが、それはプレスリーのコンサートで女性が熱狂するのと同じです。

プレスリーが男性だから女性が熱狂するという話しだけではありません。

個展であった人を思い返してみると日本のトランスな人はそもそも流行に興味が無いように見えます。
その人達が何をするのか考えてみても思い浮かびません。
多分、特別何もしません。
普通に日常を暮らしています。


日本はアメリカに比べれば宗教的な縛りがありません。
宗教の元になる空間性の種類が異なっています。
縛りを感じなければ、その縛りからの解放もありません。
私達のトランスは日常にあります。

押さえつけられたものが何かの拍子に開放されるのではなく、日々するすると異世界につながっています。


映画『エルヴィス』の影響でトランス的なものが日本でこれから流行るかもしれません。
流行はトランスとは本質的に関係なくやがて消費されて忘れられていくでしょうが、前のブログで書いたように当分の間は表現がしやすくなるきっかけになるかもしれないと思ったりします。

日常のトランスを表現することは今出来なくても、いつか将来宗教的な縛りが世界でなくなる時、日本がそれを輸入して目にする日常は遠い昔の日常と同じ筈です。

 

 


 

ロックというトランス

映画『エルヴィス』の続きを考えています。

ロックはトランスというこの映画の始めのメッセージはちょっとショックでした。
熱狂はトランスでした。
そしてそれをこうして表現する映画が現れたこと自体に時代の流れを感じて不思議な感慨を覚えています。

 

 

アメリカへの同調圧力であっても日本の空気がどういう形にせよ変わっていく予感がします。


検索してみるとコトバンクには昔からのイメージが書いてあります。


百科事典マイペディア 
「トランス」

意識の変容による異常な精神状態のことで,催眠やヒステリー,宗教的修行による忘我状態を指す。シャーマン(シャマニズム)はトランス状態に入って超自然的存在と接触し,予言や祭儀を行う。




しかしWikipediaで「トランス」を検索するとこう書いてあります。

トランス (英: trance) あるいはトランス状態とは、通常とは異なった意識状態[1][2]、つまり変性意識状態の一種であり、その代表的なものである[2]。
入神状態と呼ばれることも、脱魂状態や恍惚状態と呼ばれることもあり[2]、リハビリテーション、教育、スポーツなどの幅広い領域へと応用されている。


さらに「トランス (音楽)」をWikipediaにはこう書いてあります。

トランス (Trance) は、ハウスから派生したエレクトロニック・ダンス・ミュージックの一種である。125から150 BPMくらいまでのテンポで、短いシンセサイザーの旋律を際限なく繰り返し、うねるような雰囲気を出すのが特徴。その反復されるリズムやメロディが、さも脳内の感覚が幻覚や催眠を催す「トランス状態」に誘うかのようであることからトランスと呼ばれている[1]。主にクラブシーンやレイヴパーティーなどでDJらによってターンテーブルまたはCDプレイヤーなどを用いて演奏される。トランスミュージックの中には2つの大きな流れがある。




これまで宗教的とされてきたトランスは、今は基本的に科学的に説明でき、幅広い領域で応用されるものになっています。

トランスが特殊なものでなくなった時代が来ました。




セザンヌや浦上玉堂が描いたうねるような雰囲気は「トランス絵画」です。

プレスリーは初期のトランス状態を維持することが出来なかったのは、彼にその自覚がなかったからのようにみえます。
セザンヌは生涯トランス状態を描いていましたが、彼の後の画家はそれを意識することが出来なかったようにみえます。

 

 

 

 

『エルヴィス』

昨夜、目を閉じると作品の構想が止めどもなく浮かんで寝不足状態です。

 

映画『エルヴィス』の始めを偶然見てしまいました。

 

 

探しても見つけられませんでしたが、動画のこのシーンの前に少年のエルヴィスが黒人の教会に紛れ込んでトランス状態になります。友達が様子が変わったエルヴィスの手を引いて教会から出ようとするのを牧師が止めて、「大丈夫、精霊が下りてきている。」と言います。

 

この動画の前に夜空を見上げて家族で祈る場面があり、ここでも歌う前に体が震えています。(これは緊張のようです)

 

彼の踊りはトランス状態の結果でした。

 

精霊が降りてきた状態を見る時、感応して見る人の心の蓋のようなものが外れトランス状態を共有するようにみえます。

 

 

 

トランス状態は自発動として外から見ることが出来ます。

 

 

普通エルヴィスは黒人音楽を取り入れて云々といわれるようですが、そもそも黒人音楽には彼らの教会のトランス状態の影響があるのだと、少なくともこの映画の監督は言っているようにみえます。

 

 

 

もし空手の型のようではなく、トランス状態を保つ方向に意識していたらエルヴィスの印象は全く違ったのに、と 残念なような、自戒のような複雑な気持ちと共に、作品の画像が止まることなく浮かんできました。

 

 

 

 

色々見ているとこの動画には少年の教会のシーンもあったので貼っておきます。

プレスリーの踊りは黒人文化の影響と言われますが、その実態は黒人の宗教的トランス状態の影響と映画ははっきり表現しています。

 

 

 

 

 

逆説的な個人 と 同調圧力的なものの可能性

個人という言葉があります。いつ頃知ったのか忘れてしまいましたが、小学校か中学の頃それが西洋の普通の国というものでこのような意識を持つべきだ、とか教わって、そういうものかと思ったのかもしれません。でも今にして思うとその納得の仕方は、当時意識はしませんでしたが、一種の同調圧力のようだった気がします。





父は「作家は個人」と良く言っていましたが、考えると重層している意味を感じます。
表面的には共同体に対して個人という立場で制作と言っているように見えます。
でも具体的には、企業に勤めながらの制作ではないという意味であったり、大きな団体展に所属しないということでした。

父は一度「日展」に応募したことがありましたが、事情があったにせよ応募はそれだけでした。


日本の美術界には明治期から公募展というものがあります。
公募展

殆ど昭和までの話しで、今はないと思いますが、例えば地方の出身で日展に入選すると、それは何か東京で立身出世のイメージがあり、その地方の有力者が援助してくれるという話しがありました。
援助は作品への興味ではなく立身出世の結果でした。



日本美術史
明治以降の美術は国の近代化の一翼だったそうです。
西洋的な美術教育を受ける美術学校の中や、卒業して公募展に出したりして馴染んでいく美術界には「近代化という同調圧力」があります。
そうすると美術は言わば一種の啓蒙活動で、普通の人の共感とは関係ないので、立身出世という物語で普通の人に受け入れてもらっていました。

公園に裸のブロンズ像がたったりしました。



公募展に出さず、「個人」であろうとすることは一人で作品を買ってくれる人を探すことになります。
「近代化という同調圧力」を受けてない普通の人々の共感を得ることが必要になります。




「個人という同調圧力」から離れることで、「個人」として人の中に入ることが出来ます。

前のブログに書いた、ヘルムート・リケ氏の父の作品への印象

「この種の作品は西洋的発想からは生まれない」
「何か本質的なものへ遡っているような形」

こう感じられた作品はこんな「逆説的な個人」から生まれています。






そして、名前が変わった同調圧力の中にいることは今も同じように思います。

現代アートの世界は「近代化という同調圧力」とは別種の啓蒙と別種の同調圧力を感じます。

「終末観という同調圧力」を。

 

でもそれは「近代化」と同じように「一種の宗教的情熱」に支えられていて、その情熱がない日本では「上の空状態」で受け入れられ方に大差はないだろうと想像しています。

ある日、公園に巨大なカボチャが出現しても、裸のブロンズ像を見て自立した個人の崇高さを感じることがないように、終末観を抱くことはないでしょう。

 

これが「同調圧力」を使った認識と理解の特徴なのだと思います。

しかし、「同調圧力」という言葉ではなく、その認識方法の本質に遡ることが出来れば リケ氏が言う「何か本質的なもの」にたどり着けるかもしれないと思うのです。





 

日経メッセ 街づくり・店づくり総合展

日経メッセ 街づくり・店づくり総合展


数年前、バックライトの作品を作ったことがあり、個展に出した作品を小学、中学の同級生が見て、彼が設備関係の仕事をしていたので参考になるだろうとこの展示会を教えてくれました。

一度行くと、案内を送ってくれました。

期間は今日までです。



昨日、面白いし広いので2時間ビックサイトを歩き回っていました。



昔、東急ハンズの素材売場で商品を見ながら構想を浮かべていたようなものです。
構想だけやり過ぎるとどういうわけか気分が悪くなるのでほどほどを心掛けています。




素材で心が引かれたのはこれでした。

これ、ステンレスだそうです。


アサダメッシュ




これはこのまま作品にしたいところです。


マストレ


思わず説明の人に使って良いですか?と聞きそうになりました(笑)


2m四方のこんなのを夢想してしまいます。誰でも見えるオーラとして(笑)