「理解」の見取り図③
「2050年には大半が無宗教に」信仰心の篤いアメリカで神様を信じない人が増えているワケ
フランク・マルテラ
テキストを読んでパリオリンピックの開会式の動画を見ると意図への同意とは別ですが納得できる気がします。
なぜ欧米人は「日本人の多くは無神論者」に驚くのか…無神論者が世界中のどの宗教より危険視される理由
岡本 亮輔
日本は87%の人が無神論と答える国だそうです。ただ左脳で宗教を感じている私達には海外の基準を持ち込まれても説明し難いギャップと困惑があります。
日本では初詣と宗教は関係ありますが別のことです。
ただ、テキストにある(最近は違う意見も出て来たそうですが)無神論者(西欧的)は直感的に凶悪犯罪を犯しそうな人と見られるという記述は怖いものがあります。
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暗黒の淵に夕暮の大都会は沈みこみ、暗黒な金泥をぬりこめた墨のように光輝をふくんでおり、そして夜明け太陽が燦然とそこから現れた、黄金の人間だ、神だ、天皇陛下だとおれは感じた。
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大江健三郎「セヴンティーン」
西欧の基準からすると無神論者に見える日本人と、無神論になりつつある国の人にとっては、この文から受ける感覚は随分違うだろうと思います。
無神論になりつつある国の人にとってはこの感覚で戦争が今も起こり、かつて魔女狩りや宗教戦争をしてきたことを連想するかも知れません。
日本では、右脳的認識への飛翔を感じられるものの、初詣に行きながら結婚式は教会でという現実の深層には関心がないように見えます。ある種、無神論者と西欧から呼ばれることへ弁明のようにも見えます。
絵画の世界で考えると、セザンヌの晩年の絵は、意識の編集が緩む時に現れる内視現象で風景が変形して見えるのをそのまま描いていてきわめて右脳的なものですが、人物を球と円柱のような幾何学的な形に変形させた絵を代表にして、晩年の作も含め全体を「理性的な作品」として美術史の中で位置付けています。
世界を平面に写すのではなく、作者の意思によって現実を作り変えて作画することを以て近代美術が始まったことになっていて、セザンヌが若い頃のゾラとの交友関係は取り上げても、晩年は敬虔なクリスチャンであったことは無視されます。
西欧の近代美術は無宗教化の流れと共にありました。
そしてミレーのような絵画からセザンヌへ美術は自然に流れているように見えて、そこに滝のような無宗教化の段差があるとは左脳的無神論者の私達には興味が持てません。
同じ美術と「理解」されます。
西洋人は感性的な認知を左脳へ移動させようとしているように見えます。

バンクシーの作品は言葉で意味の絵解きが必要な絵画で

日本の古い「かまわぬ」という模様のようです。
柔道は海外の方が競技人口は多いそうですが、それは左脳への移動の中でかつての宗教的なモラルに代わるものとして、無神論のモラルのように傍から見える柔道の「礼儀」を左脳的な行動の基準線として見ているように見えます。
ただ、日本人と異なる脳機能の中、サイコパスと言われる右脳的無神論者にモラルが可能なのかと考えてしまいます。
妄想に過ぎませんが、西欧の人の右脳的感性の認識の暴走を止めていたのが彼らの宗教で、宗教に代わるものとして左脳的になろうとしても、感性的な認知を左脳に振り替える具体的な方法は恐らく存在しません。
感性的な認知を左脳に振り替えようとするのは、イスラエルやアラブの人に過ぎたことは仕方がないからもう争いは止めようと説得して受け入れてくれるようなものです。
逆に感性的な認知を右脳に振り替えようとするのは、原爆や大空襲の犯罪を忘れず、アメリカの旅行者に危害を加えても愛国無罪と主張するようなものです。
そして現実の世界で起きていることは
オミクロン株の変異プロセスを数理モデルで評価
掛谷英紀
民主主義はもうダメかもしれない と言われています。
この世界を大江健三郎ならどう書くのか と思います。
ただ私達は左脳的に「理解」し続け、適応し続けていきます。
「理解」の見取り図②
大江健三郎や三島由紀夫が感性的な認知を右脳に振り替える具体的な方法について何か言っていた記憶はありません。
私が知らないだけなのかも知れませんが、おそらくどうすることも出来ません。
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暗黒の淵に夕暮の大都会は沈みこみ、暗黒な金泥をぬりこめた墨のように光輝をふくんでおり、そして夜明け太陽が燦然とそこから現れた、黄金の人間だ、神だ、天皇陛下だとおれは感じた。
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大江健三郎「セヴンティーン」
この文は表面的に政治的であったり宗教的な印象を受けますが、それは本当に表面的な問題で、この浮かび上がるようなイメージは右脳的なものです。多分そのことを大江健三郎と三島由紀夫は共有して分かり合っていました。
絵画の訓練でもこの感覚が得られると以前に書きましたが、得られる筈ということで、実際に絵画作品になっているのを見ることは殆どなく、考えられる理由はいくつかありますが、右脳的な感覚を表現する意思がないのか、そもそも感覚を獲得していないのかも知れません。
またはどうでもいいと思っているのかも知れません。日本人が主に使う左脳は言語脳といわれるように言葉で理解するなら右脳的な世界を理解することは出来ます。(この「理解」が心の中で「鏡」として作用すると考えられます)

西欧の文化に触れた日本人は自分をこの図のように錯覚することが出来て、感性的な認知が左脳でなされることを問題に感じることはなく、右脳でなされる認知の快感の存在に興味はなく、大江健三郎がいうようなおぞましさとまではならないまでも旧来の日本人を蔑視します。しかし同時にそれが潜在的に「理解」しているに過ぎないという意識をコンプレックスとして持っていて、実際作品は模倣と西欧から評定されます。
しかし大江健三郎はノーベル文学賞を受賞しているので政治的な思惑はあるでしょうがそれ抜きにしても海外の読者がいる筈で、何故こういう意識から生まれる作品が理解されるのかという問題があります。
「理解」の見取り図① 大江健三郎が「おぞましい」と感じたもの

大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」
井上隆史 著
新聞で見た大江健三郎と三島由紀夫が通底しているように取れる書評が気になって読んでみました。
高校時代に「死者の奢り」は読んだことがありましたが、その後、名作と言われる「万延元年のフットボール」は始めの方に出てくる友人の死に方が気持ち悪くて途中で止め、それからは著作を手に取ることはありませんでした。
ネタバレですが、本の最後の「おわりに」には「おぞましいものを文字の中に封じ込めること。それが大江にとっての創作活動なのではあるまいか。」とありました。
そして途中の章に、「セヴンティーン」という作品の中で三島由紀夫が評価したといわれる一節が載せてあります。
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暗黒の淵に夕暮の大都会は沈みこみ、暗黒な金泥をぬりこめた墨のように光輝をふくんでおり、そして夜明け太陽が燦然とそこから現れた、黄金の人間だ、神だ、天皇陛下だとおれは感じた。
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書いた大江健三郎と評価した三島由紀夫が同じものを目指しているのが理解できます。
これを
こうしたかったのです。
脳の活動を図の中の白い円で表すと日本人は左脳を主に使い、西洋人は右脳を使っています。右脳を使う快感は何度か書きましたが、絵を描くことについて言えば繰り返し「見る方法」つまり右脳を使って見る訓練をした経験がなければ実感出来ないかも知れません。でもその甘美な快感は確かに存在します。
「セヴンティーン」の一節にはこの快感が書かれてあります。
大江健三郎も三島由紀夫も、感性的な認知を西洋人のように右脳に振り替えたかったのです。
しかしそうすると

この形そのものが「おぞましいもの」になり、大江健三郎にとっては政治的な発言になり三島由紀夫は自決に到ったように見えます。
参考「音と脳」

戦後、私達は無意識に左右どちらからも結局自分を「おぞましい」と感じる空気の影響を浴びてきました。
それが日本語で演奏された「第九」は初演とは言えないという説だったり、梅原龍三郎の作品を模倣と感じてしまう背景として作用しているように見えます。
「替え歌」から思い直す「時代の空気」
渡辺裕 氏 という音楽学者がいます。実は氏とは高校が同期で、その高校のMLを通して研究を垣間見ることがあります。
(ちなみに「氏」という敬称は同期の会話で普通に○○君というように○○氏と使います)
先日、九州大学で公開講演会がありMLの中で動画を見ました。非常に面白かったのですが残念ながら著作権の関係で一般公開ではないようです。
演題はこうでした。
「第九」日本人初演100周年記念事業公開講演会
九大フィルの《第九》上演と「替え歌文化」
~明治大正期日本のもうひとつの「西洋文化受容」~
九州大学のオーケストラが100年前にベートーヴェンの「第九」を日本で初めて演奏したものの、それが日本語で行われたので初演と言えないという説があるそうです。それに対し西洋文化の受容の在り方を「替え歌文化」を通して研究している立場から、他国の文化を取り入れる時に自国語に変換することでその文化が広がることを説いています。
講演のテキストを見ると最後の方に、『和歌における「歌枕」や「本歌取り」を思わせるような重層化の手法』という言葉がありました。そして私も前回の個展の挨拶文に『本歌取りした後の自分ではなく本歌取り出来る自分の表現としての鏡』と書きました。この「本歌取り」繋がりの偶然は不思議な気持ちになります。
もっとも渡部氏にとって「替え歌」と「本歌取り」の関係は過去の考察でしょうが、私の場合は、大雑把に言えば例えば佐伯祐三とブラマンクの関係のような「他律性」から「鏡」へ行き「本歌取り」へという関係で昨年初めて挨拶文に書きました。
公演は断片的にですが何度が見ていて感想が次第に変わっていきました。
最初、「西洋文化受容」の音楽の例として浅草オペラのエノケンの話しがあり、それに対応するような美術は誰かと考えると「竹久夢二」を思い付き、随分暗いなぁ~!(笑)音楽の明るさがうらやましく思えました。
それが、繰り返し聞いたからなのか、聞いて蓄積したものが自然に浮かび上がって来たのかは分かりませんが、明治大正期の実像のようなものを感じられちょっとショックでした。今まで思い違いをしていたようです。
講演の中で例えば、「正調安来節大全」という本が1929年(昭和4年)に出版されたそうですが本の全てが安来節の替え歌の歌詞なのだそうです。今の空気とは全く違う世の中がそこにあります。
戦前の少なくともある一時期、世の中には、エノケンのような明るさを伴って、一つの鏡では足りず合わせ鏡の中に無限に繰り返される本歌取りの世界があったように見えます。
ルノアール
梅原龍三郎
竹久夢二
ルノアールと梅原龍三郎、この二つの絵の類似関係などどうでも良く、竹久夢二も明るく見えたに違いありません。(実際こうして並べると明るい絵に見えます)
そして竹久夢二の作品をイメージの中で暗く感じたり、梅原龍三郎の絵をパクリと感じたりすることこそ、第九が日本語で行われたのを初演と言えないという説の底にあるものと同じ「何か」の影響下に今この瞬間もあるからなのかも知れないと思います。
文化研究は「作品の価値をもっぱら作者個人の個性や独創性に帰属させるような西洋近代型の考え方を見直し、その相対化をはかること」と渡部氏はMLで書いていました。
深い言葉です。昔書いた「縮小する日本美術の独自性」というブログは「日本」の代わりに「グローバルな何か」を中心にしているように誤解していたようで、書き直してしまいました。
『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』 これから出る本だそうです。
対話 - 入ってくる視点
新美術新聞という美術関係の新聞があり、今度の大阪の個展の紹介を
してくれることになりました。
記事を書く資料として前のブログに載せた解説文を送るとしばらくして
校正を送ってきてくれます。
読むと、違うことが思い浮かんで来ます。
少しずれる というか、、、記者さんの視点が自分の中に入ってきた
ような不思議な感覚でした。
これが「対話」か と妙に納得できました。
解説文を書き直しました。
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共生をテーマに鏡を入れたシリーズのタイトルRevelationの訳は啓示ですが
日本から始まる啓示を考えています
日本は古代からの美術品が残る稀有な国と言われます 古いものを破壊して
新しく創造するのではなく 古いものと新たに作るものの背景の
思想を共存させることが出来た国です 一つの思想に染まり切ることはありません
神社の御神体にもなる鏡は相対するものを映し 対象が変われば映るものも
変わり像が固定されることはありません
鏡は全てを取り入れることが出来る日本の象徴のように見えます
しかしそこに実際は 思想という内実をそぎ落としてしまう一種の「力」を
感じさせられます
作品の中の鏡は 作品と鑑賞者の関係性の再考と共に 映し出すように新しいものを
取り入れることが出来る私達自身を表そうとしています
私達の鏡には 太古から過去を破壊する世界が映っていますが染まり切ることはない為
鏡像は私達自身を否定します
明治時代から 個人という意識を取り入れながら その意識は今も希薄と言われ
私達自身が原因であるかのように感じています
しかしむしろ 地球の全ての人が鏡を持ち 過去の破壊を止め 全ての思想から
距離を持つことが出来れば 世界は今よりは平和になるかも知れません
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短い文ですが時間がかかります。
制作と同じである種 達成感 が欲しいのです。
今回の時間は 「鏡は思想をそぎ落とす力」 この言葉を思い付くためでした。
入って来た視点が気付かせてくれました。
鏡からの妄想
去年の個展で作品を会場に並べた時、作品の見え方が変わっているのに驚きました。
鏡が何もない空間に、、虚空のように見えました。

6月に個展の予定があり、鏡の作品の解説文を考えています。
何故か不意に学生の頃の教授の話しを思い出しました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手のデッサンと絵は記憶にあっても名前が思い出せない日本の明治か大正期の画家の樹木のデッサン、二つの複製を持ってこられ、お話しは「生の実感」というような表現することの心構えだった気がします。

しかし思い出すのと一緒に、色々な思考の断片が渦を巻くように頭の中で回っているのを感じました。
正確には断片の一つが教授の話しでした。
渦の後に残ったのは、「生の実感」が必要なのは現実感が無い世界に生きている結果なのかもしれない という思いでした。
私達は鏡像を見ているのかもしれません。
私達自身が鏡なのかもしれません。
このまま出すか分かりませんが、断片を纏めた解説文です。
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共生をテーマに鏡を入れたシリーズのタイトルRevelationの訳は啓示ですが日本から始まる啓示を考えています
日本は古代からの美術品が残る稀有な国と言われます 古いものを破壊して新しく創造するのではなく 古いものと新たに作るものの背景の思想を共存させることが出来た国です 一つの思想に染まり切ることはありません
神社の御神体にもなる鏡は相対するものを映し 対象が変われば映るものも変わり像が固定されることはありません
映っているものが見えない時 虚空がそこに開いているように見えます
鏡像は虚空と共にあって ありのままが映っているように見えながら実は 現実感を失っています
現実感を失わせることを浄化と呼ぶのかも知れません
染まり切らない私達は現実を鏡像のように見ているのかも知れません
明治時代からの社会的な鏡像の一つが過去を破壊して新しく創造する世界であってもそれが鏡像であるならば 現実感を持つことはこれからもないでしょう
むしろ同じような鏡像を世界が持てば 過去を破壊することが止むかも知れません
複数の思想が共存出来るかも知れません
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6月の個展にはガラスの鏡の他に、凸面にした樹脂をメッキして鏡状にした作品も1点出します。
発見があることを期待しています。
「自己表現」でコーティングされた「私達の表現」
掲載中の漫画とそのテレビ化をめぐって何ともやり切れないことが起こりました。
漫画もテレビも見ていないので作品は知りませんが、妄想が頭の中を渦巻いてしまいます。
そもそも表現とは何か、と考えると 最近 Dさんはこう書いています。
「アーティストは大衆に迎合する存在ではなく、大衆を導く存在。」
関係の話しは後にして、「自己表現」と言われたりもします。
しかし昔の日本はそうではなかったようで、wikipediaで「本歌取」を調べると
《本歌取(ほんかどり)とは、歌学における和歌の作成技法の1つで、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法。主に本歌を背景として用いることで奥行きを与えて表現効果の重層化を図る際に用いた。
例えば、
『古今和歌集』巻2 94番歌 紀貫之[1]
「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」
『万葉集』巻1 18番歌 額田王[2]
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」
この2作品を比較すれば明らかなように、貫之は額田王の第1句・第2句をそのまま採用して第3句以後を自作としている。》
これは私の表現と言うより「私達の表現」と言えそうです。
そしてこれは平安時代の話しだけではなくて
マッチ擦るつかの間海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや
寺山修司
この歌には元歌があるそうです。 「タパヌリ熱」から
一本のマツチをすれば湖は霧
富澤赤黄男
他のところで見つけましたがこういうのも
めつむれば祖國は蒼き海の上
富澤赤黄男
寺山氏の歌は発表当時から盗作という話しはあったそうですが、今 検索すれば出てきますが当時も今も表立って問題にされることはなく、優れたものとしてこの作品は教科書にも載っているそうです。
そして興味深いことに寺山氏の作品が「本歌取」ではなく「自己表現」に見えます。
ハードボイルドの小説家が主人公の映画「ハメット」の中、バーテンでマルキストの友人がSFの海を見ながら詠みそうです。
それは「私達の表現」が「自己表現」にコーティングされているようにみえます。
「本歌取」は他のことでも感じます。
ルノワール「麦わら帽子の女」
梅原龍三郎 「黄金の首飾り」
日本の近代が西欧の本歌取に見えます。
そして複雑で厄介なのは、本来、本歌取で得た「自己表現」という感覚が、本歌取して自己表現出来ない自分自身を攻撃しています。
アーティストが自己表現で大衆を導く存在になれるのは、個人として啓示を受けるという物語に依っていて、そこには絶対的な神が存在した伝統に基づいています。
才能をgift という言葉で表す伝統を私達は持っていません。
そしてもし「私達の表現」が「自己表現」にコーティングされている全体そのものを表現してきた歴史を私達が持っていたら、漫画家が亡くなることはなかったのではないか と思うのです。
「タパヌリ熱」にはこの本歌取もあります。
わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る
寺山修司
わが天使なるやも知れず寒雀
西東三鬼
寺山氏は「私達の表現」と「自己表現」の二重構造を意識していたように見えます。
クリスマスを宗教的な背景とその痛みには関係なくイベントとして楽しむように、自己表現を本歌取してその気になってしまう私達へのシニカルな視線を感じます。
硝煙を嗅ぎつつ帰る場所は「私達の表現」の世界です。
「9浪はまい」さんの記事からの妄想とマウント世界からの脱出
また久しぶりのブログですが、書くのが少なくなったのには、制作で時間が無くなった
のですが、別の理由もありました。
去年、「9浪はまい」という記事を読みました。
濱井正吾さんという人が9浪して早稲田大学に入ったという話しで、地方の底辺校と
言われる高校のいじめや、いじめの背後にある努力することを否定する意識と、所謂
上位校の学生の思慮深く言葉遣いが丁寧で育ちの良さを感じさせる人達の意識の差が
書いてありました。
教育意識の地域格差というような説明でした。
読んでしばらくして、急に今までとは全く違うビジョンが、ドアが開くように見えて
来ました。
かつて「意地悪と呼ばれるもの」というブログを書いたことがあります。意地悪の意識
の全体を考えたのですが、濱井さんの話しを読んで、それは全体の半分に過ぎなかった
ように思えて来ました。
日常時々(確かに特に地方は)理由もなく攻撃的な人に会うことがあります。
しかしこちらが攻撃する意思のない事が分かると結構良い人だったりします。
その人達が何故攻撃的なのか考えてみると、結局 マウントを取られることを恐れている
ように見えます。マウントを取られることがないのが分かると普通の世界に戻ってくる
ように見えます。
「いじめ」は この「ひたすらマウントを取り合う世界」が一点に歪んで集中して露出
した結果のように見えます。
そして、何故マウントを取り合う世界が出来たか考えると、それはきっと「個人」という
意識が変容して作り出されたものです。
伝統的、宗教的な背景を無視して明治時代に輸入された個人という意識は、人間は一人
ずつ別々で個人として他の個人を対等に尊重する関係を作ると期待されたのと裏腹に、
孤立して一人になった人間は自分の周囲との力関係に意識を集中して、マウントを取り
あう世界を作っています。
孤立した人間が個人になるには「絶対的な神」という共通の基盤が必要です。
孤立という前提を持ち込まなければマウントははじめから存在しません。
表現は個人の意識の表出言われますが、同時にマウントを取りあう世界を補強する材料に
なります。
鏡を入れた作品は、作品に外部を入れて個人の表出に多重性をいれ、個人からずれた
表出を作ろうとしています。
そういう意識で制作したものです。
それがマウントを取りあう世界から私達の普通の世界に戻る道のように思いました。
しかし、ブログのような言葉では、鏡のように作用する言葉はまだ作れないのです。
これから、どの位時間が必要か分からなくても、個人を作るために、イジメはそのままにして
明治時代のように絶対的な存在や理念を絶対民主主義とか言って作り出そうするのも一つの道ですが
きっといつか来る、個人を作るのに抑圧を必要としない将来の為に、絶対的な何かが無くても
人が共生出来ることを示すのももう一つの道だと思うのです。
明日から個展を開きます
藤田 新展 -共生の庭- 日本橋髙島屋
久しぶりのブログです。
前のブログに書いた新作は今回は出せませんでした。
個展が終わるとすぐ次の個展の雰囲気を頭の中で作りますが、
新作を思い付いたの今年に入ってからで、思い付くと厄介なことに頭から離れなくなります。
前にイメージした全体像にはお構いなしに妄想が広がっていき、
まだ作ってもいない作品が途轍もなく素晴らしいもののようにリアルに感じます。
ブログを読み返してみるとその時頭の中にあった世界が甦ってきます。
結局、新作を10点ぐらい作り、1点長崎の個展に出したもののイメージには届かず
これ以上やっていると12月の個展に間に合わなくなると、今回は諦めることにしました。
考えてみるとこういうことは過去にもありました。
今回案内状にした作品です。
中の丸い部分は鏡は入っています。
前回までメッキをしたレジンを使い鏡状としていましたが、新作はガラスの鏡です。
鏡は穴のようにも見えます。
何かを映しているのも見えます。
映すものは自分だったりします。
この作品として「納まった」感じが崩れるような感覚に、もう自分で作ったとは思えず
戦慄してしまいます。
鏡は作品の「外部」でありながら共存しています。








