大学時代に バイトでヘルパーさんをしていたころ。
バイト先の人々と事務所で鍋をつつきながら職員さんの話を聞いていた。
「こういう仕事で 障害のある人と関わってるとさぁ
利用者さんと比べて、健常者のほうがよく状況が見えていたりよく考えることができていたり
そんなふうに感じることも、まぁ あるでしょ?
でもさ。違うんだよね。
世界って広くて、健常者だってそのすべてをわかってる訳じゃない。
世界の広さから見たら、利用者さんから見える世界も 健常者から見える世界もそうたいして違わない気がするんだよね」
〜 〜 〜
この言葉を 今も私はちょくちょく思い出す。
そして、この言葉を思い出すとき別件で知った 蝶のはなしを一緒に思い出す。
蝶は、紫外線でものを見ているらしい。
紫外線は、人間の目で見える可視光とは違うので蝶が見ている世界は 人間が見ている世界とは もちろん違う。
五感。視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚。
これが まぁだいたい同じように揃っている人間同士でも世界の見え方は ずいぶん違ったりする。
さらに 我々が持っている五感 とはまた違う世界を知るための “感覚” は蝶の紫外線に限らず、まだまだあるだろう。
コウモリの超音波とか。
あるいは第六感的なものとか。
ならば。
自分はいったい なにを見て、「これは正しい」「あれは間違い」「これには価値がある」「こんなの意味ない」と、決めているのだろうか。
それは、今 自分に見えている ごくごく限られた視野でだけ
今 自分に感じられる ごくごく限られた感覚の世界でだけ
正しく見えるものであり
間違いに見えるものであり
価値があるように見えるものであり
意味がないように見えるものであり…
そんな感じなんだろう。
〜 〜 〜
と考えると、たとえば「あああ、こんなバカなことをやってしまって…ああもう死にたい」とか
「よし、あの人の間違いをただした自分、グッジョブ!」とか
そういうことに「?」という気持ちになってくる。
自分が「あああ、こんなバカなことをやってしまって…ああもう死にたい」となっているとき、
自分の知らない場所で「あいつは勇者だ…!」とほめたたえられていたって、まったくおかしくない。
「正しさ」や「価値」や「意味」って 一体……自分に見えていた世界が、揺らぐ。
なにを思って動けばよいのか。
自分はどっちに行けばよいのか。
〜 〜 〜
そこまで考えてみて 思い至ったものがある。
「正しさ」や「価値」や「意味」に代わる判断基準・方向性・道しるべ として
「うれしい」「たのしい」「だいすき」 ( ← ドリカムか 笑)
というのは どうか、と。
「快」の感覚は、人間が生きやすくなるためのもの生を未来に繋いでいくためのもの と私は 理解している。
(たべものを見ると「美味しそう」って思うけど、うんこを見ても「美味しそう」っては思わないでしょ?
それに、大好きな人と お互いに相手を思いやりながらする性行為は 気持ちいいでしょ?そんな感じ。)
進む方向を知るための コンパスとしての「快」
ときに、「快」の感覚と 「価値」「正しい」などを捉えまちがうこともあるけどね(^_^;)
ホントは「快」と感じるはずのところで一生懸命「快」と感じないようにしていたりてなこともある。
とはいえ そこは、気づいたときに どうにかできるものだとわかってきたので、急いでなんとかしようとしなくてもよさそうだ。
(私はあんまり「今でしょ!」とは言わない。)
〜 〜 〜
そんなことを考え、「心地よい」を大事にするようになった。
はじめの頃は、「心地よい」を感じるセンサーが鈍っていて食べることしかそう感じられることがなかったのだが
(よく食べていたので、今より12キロくらい 重かった)
いろいろ試すうちにカラオケが楽しいことがわかり
文章を書くのが楽しいこともわかり
漫画を読むのも楽しいことがわかり
こうやって 心のことを考えるのも楽しいことがわかり…
そんな感じで、今に至る。
(食べる以外の楽しいことを見つけたら、自然とやせた。)
「快」というコンパスが 正しいのか 正しくないかはわからないが今のところ、好感触だ。
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2014年に旧ブログに書いたおはなしでした。
バイト先ではステキな人と出会ってきたものです。
蝶が紫外線でどんなふうに世界を見ているか見られるページがあった!
こんなことを考えて、毎日16時に過去記事を紹介しています。
読んでくれてありがとう!