やらなきゃいけないことなんてないんだ
自分や大切な人の笑顔のためにできることが無限にある
それだけなんだ



私がもがいていたころ。

「生きるにはどれだけのことをやらなくちゃいけないんだろう」と思いながら、たくさんのことを自分に課していた時期がありました。

当時は、環境問題に熱くなっていました。


学ぶべきことも行動に移すべきことも山ほどあるように感じていました。
自分が気付かないうちにたくさんの人や動植物の命を奪いながら生きている。

先進国に暮らしているだけで、気づかないうちに途上国に住む人々を踏み台にしてしまっている。

そう思って、他人を傷付けない生き方を模索していました。


しかし、人として生きるということは、ものを食べずには成り立たない。
どうしても他者の命を奪ってしまう。

他者を傷付けない生き方を目指すうちに、自分に「やってもいい」と許せることが、どんどん減っていき、私は自分の命がどんどん自分が小さくなっていくのを感じました。

「死ねばいいのではないか。そうすれば搾取することもなくなるのではないか」という考えに至りました。

それでいいのか。
その考えは、“生”そのものを否定していないか。
生きている人全員を否定することにはならないか。
私はギリギリのところで踏みとどまっていました。


疲れもあったのでしょうか。
あるとき、「やはり死のう」と思いました。

「死ぬ前にいちど、うまいもん食いに行こう」と思いつき、コンビニのATMから残り最後の2000円をおろし、1皿100円の回転寿司店に行きました。

そこで食べた炙りトロサーモンが、うまかった。
本当に、うまかった。

そのとき気づいたのです。
おいしいものを食べてもいいのだと。


こうやって食べれば、回転寿司のお店にお金が入るからお店も嬉しいだろうし、店員さんが家族を養っていれば家族の喜びにも繋がる。

「おいしいおいしい」と食べる姿だって、店員さんには嬉しいものだろう。



生きていれば、どうしたって人を傷付けてしまう。
けれども、生きていることがそのまま、人を喜ばすことにもなっているんだ。

自分が「楽しい」「おいしい」と、心地よく感じられることをやっていけばいいんだ。
それでいいんだ、と。


その時、私は「やらなければならない」という考え方から解放されたのです。

やらなきゃいけないことなんてないんだ
自分や大切な人の笑顔のためにできることが無限にある
それだけなんだ

…と。



今でもよく「やらなきゃ」という考え方に陥ることもありますが、そういうときは独特の“追われている感覚”があってわかりやすいので、
そのたびにお寿司屋さんで気づいたことを思い出し、危なくなる前に方向転換をできるようになりました。


傷つけることも奪うこともなくならないかもしれないけれど、だからこそ自分が「生かされている」という気持ちや感謝は大事にしよう。

生きていれば、生きていけば、人を生かすためにできることを増やしてもいけるはずだ。


「自分みたいな何もできない人間が、こんなにもらってしまっていいのだろうか」
「自分が他者のシアワセに貢献している分の少なさを考えると、今のくらしは贅沢としか言いようがない」
…と感じるようなときも、

「たくさんいい思いをさせてもらっている分、自分もできることをやって少しでも喜んでもらえるようになろう」
そう考えられるようになりました。



また、

「あのとき、お寿司を食べに行こうと思いついていなければ、自分は本当に死んでいたかもしれない。

…となると、今『これをやらなきゃ死ぬかもしれない』みたいに“生”にこだわって生きるのはなんだか滑稽なことな気もする。

自分は死にぞこないなんだ。

余生と思って、気楽に生きようではないか」

…という具合に、自殺を考えた一件も、ウジウジせず楽に考えるのにとても役立っています。



この考えが正しいとは言えません。
でも、こうやって生きている人もいるということです。


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2011年1月に書いたおはなしでした。

(旧ブログです)



やさしい気持ちによって痛む全ての人へ。
そして、よろこびを増やす暮らしを望む全ての人へ。

これを読んでほしい。




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こんなことを考えて、毎日16時に過去記事を紹介しています。
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