”「南京大虐殺」とよく似た「スレブレニツァの虐殺」のプロパガンダ” | 阿幾左与庵

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リブログ転載です。

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先日5/24のことですが、国連総会で7月11日を「1995年のスレブレニツァ虐殺を反省し追悼する国際デー」と定め、毎年実施する決議が採択されました。

 

私は「1995年の事件をなんで今更・・・」という印象を強く持ちましたが、28年以上も前の戦争を今このタイミングで蒸し返して「スレブレニツァ虐殺」記念日にすることを国連総会に提案したのは なんとドイツとルワンダです。

両国にそのように「虐殺」を非難する資格があるでしょうか?

ナチスドイツが行ったユダヤ人に限らず他民族の一般市民に対して行った大虐殺や、ルワンダ国民の20%が死亡したといわれる大虐殺を考えると、まさに「お前が言うな!」状態の2か国がこの決議案を提出したわけです。

 

ユーゴスラビアの内戦は 私が海外情勢に興味を持つようになったきっかけであって、現在のボスニア・ヘルツェゴビナにあるスレブレニツァで1995年7月に起こった事件というのは あまりにも西側メディアで セルビアだけが一方的な悪者にされているのが明らかなので、今回、まだ多くの日本国民が知らないであろうことを取り上げたいと思います。

 

そして、スレブレニツァでの事件から28年10か月が経過しても、このような決議案が出され、可決されるということは 未だに 西側の偏りすぎた報道でNATOの軍事介入を正当化したい勢力と、同じイスラム教徒というだけでボスニアのムスリムがやった、セルビア人への虐殺を ないものにしたいトルコ(トルコはアルメニア人虐殺から目を背けさせたい)やボスニアへテロリストを送ったアラブ諸国が世界でこのスレブレニツァのプロパガンダを広めているのです。

 

そして、このような「スレブレニツァ虐殺追悼記念日」決議案を今通して ただでさえ不安定なボスニア・ヘルツェゴビナをより政治的に不安定にしたり、ここでまた民族憎悪を煽るというやり方に 私はとても不快感を感じています。

 

まず、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の和平として結ばれた「デイトン合意」について書きたいと思いますが、これはボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人コミュニティがボスニア・ヘルツェゴビナ領内の面積の49%を占める「スルプスカ共和国」に居住して高度な自治権を有し(大統領、政府、立法府を有する)、さらにボスニア・ヘルツェゴビナ連邦議会も定数42のうちスルプスカ共和国が14議席を持ち、残りの連邦28議席がボスニアのイスラム教徒とクロアチア人連合の議席になる という具合に、セルビア人、イスラム教徒(ムスリム)、クロアチア人の3民族が連邦国家の中に共存して、3民族が平等な民主主義体制を維持することに合意した というものです。

 

(上の地図:旧ユーゴスラビアの構成国が現在どのようになっているかの地図。ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアとセルビア、モンテネグロに挟まれる形で存在)

 

(上の地図:ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の地図。青い部分がセルビア人主体の共和国であるスルプスカ共和国。2つのエリアをつなぐ真ん中にある緑の部分はブルチコ行政区と呼ばれていて、スルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の両方が共有している土地となっています。)

 

日本の多くの方々は このボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は ボスニアのイスラム教徒(ムスリム。今は”ボシュニャク人”とも呼ばれている)、クロアチア人、セルビア人の3民族の間で殺しあった というふうに思っておられるかと思いますが、それは違います。ユーゴスラビアでの内戦自体が ユーゴスラビア内で最も多数派(人口の36%)のセルビア人が主な攻撃のターゲットにされていて、特にクロアチア内戦、ボスニア内戦では イスラム教徒であるボスニアのムスリムとカトリック教徒であるクロアチア人は事実上同盟を組んで、セルビア人相手に戦っていました。(当時はセルビア・モンテネグロ軍)

 

ボスニアのムスリム、クロアチア人、セルビア人と一見、違うように見えるこの3民族は 元々は ほぼ同じ民族であって、このように言うと クロアチア人、ボスニアのムスリムは怒るかもしれませんが、セルビア人から見れば、ボスニアのムスリムは「オスマントルコがこのバルカン半島を支配していた時代(1371年~第一次世界大戦)にキリスト教正教会からイスラム教に改宗したセルビア人」であって、クロアチア人は「オーストリア・ハンガリー帝国がクロアチア付近を支配していた時にキリスト教正教会からカトリックに改宗したセルビア人」と言ってもよいくらいに、民族的な違いはありません。(さらに、モンテネグロ、北マケドニアも同じ民族です。)

 

ですから、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語は話し言葉はほとんど同じです。文字はセルビア語がロシア語と同じキリル文字、クロアチアが1869年にキリル文字の使用をやめてラテン文字に変え、ボスニア語も今ではラテン文字とキリル文字の両方を使用するように変わった というだけで、話し言葉は ほとんどセルビア語、クロアチア語、ボスニア語は同じであって、民族的には いずれも「南スラブ人」と言えます。

 

ボスニアのイスラム教徒(ムスリム。今は”ボシュニャク人”とも呼ばれている)とボスニアにいるセルビア人との間で激しい戦いが起きた結果、ムスリムからセルビア人市民への虐殺(女性や子供も含む)が多く起きたし、その”仕返し”としてセルビア人からムスリムの殺害(ほぼ全員が戦闘年齢の男性が死亡)も起こった というのがスレブレニツァで起きた本当の事です。

 

しかし、ユーゴスラビア解体、小国への分割を早くから狙っていたNATOにとっては 軍事介入を正当化する目的の為には ユーゴスラビアの中で最も人口が多く36%を占めていたセルビア人と、セルビア人である当時のユーゴスラビア大統領、ズロボダン・ミロシェビッチ氏を悪者にする必要がありました。

 

一番最初に起きたスロベニアの独立宣言の時には スロベニアは民族が少し違うので大きな争いにはならず、1991年6月27日からたった10日で比較的すんなりとユーゴスラビアから独立となりました。

 

しかし1991年3月31日 – 1995年11月12日と4年7か月かかったクロアチアの内戦では セルビア人25万人を強制的にクロアチア南部のクライナから追い出し、抵抗する者は民間人も容赦なく虐殺して(少なくとも1,196人の市民が殺害された)1995年8月4日~8月7日に NATO軍とボスニアのムスリム軍の協力により「嵐作戦」が実行されました。

 

ですから、西側メディアは NATOによる武力介入を正当化する為、ユーゴスラビア内戦では セルビア人がボスニアやコソボで民族浄化を行った というふうに報道しましたが、実際に一番酷く「民族浄化」を行ったのはクロアチアであって、セルビア人に対して行なわれました。

これは現在のクロアチアの人口動態を見ても分かります。下はwikipediaのスクリーンショットです。

 

そして、外務省の「クロアチア基礎データ」によれば、上のグラフよりも もっと民族浄化が進んでいて、2021年の国勢調査では 人口の91.6%がクロアチア人、セルビア人の割合は上のwikipediaよりもさらに減って3.2%となっています。↓

 

 

 

クロアチアが「民族浄化の最も成功した例」と日本語のwikipediaには平然と書いてありますが、この人口動態を見れば分かる通り、戦前には25万人以上いたセルビア人を まさに「民族浄化」や「虐殺」したのがクロアチアなのです。(ちなみに、セルビアでのセルビア人の占める割合は83%となっています。)

 

しかし、クロアチア政府は この嵐作戦での民族浄化について、一言もセルビアに謝罪をしたことがないし、国際社会もなぜか非難しないのが不思議ですね。

 

そして、嵐作戦が行われた1995年8月4日~8月7日の少し前、1995年7月13日~7月22日には スレブレニツァでの「虐殺」事件が起こっている というこの時系列が重要です。

 

このスレブレニツァでの事件を全てセルビア人の責任へと押し付け「残虐なセルビア人を止めるべく国連やNATOが介入すべきだ」という世論を高め、その直後に すでに計画されていたクロアチアでのセルビア人への浄化作戦のNATOの「嵐作戦」が ボスニアのムスリム軍もクロアチア軍と一緒に参加して行われたのです。

 

ですから、計画的に行われた「嵐作戦」でのセルビア人への民族浄化の事実から目をそらさせるために意図的にスレブレニツァの事件が作られた可能性も高い とこの事件を研究しておられる学者の方々の中には言っている方もいます(こちらのサイトはそう言っています。)

 

つまり、ユーゴスラビアの内戦は 「違う民族同士が血で血を洗うような激しい戦いをした」というふうに思われている方が多いかもしれませんが、実態はユーゴスラビアの中で人口で最も多数派を占めていたセルビア人が 異常に「悪魔化」されて攻撃のターゲットにされて、クロアチア人とボスニアのムスリム軍は事実上同盟関係で、彼らは一緒になってセルビア人を攻撃したり強制収容所に入れて民間人を虐殺したりしていて、NATOによる武力介入の為にセルビア人を悪魔化する最も効果的なツールに使ったのが「スレブレニツァの虐殺」と言われている事件なのです。

 

そして、重大なこととして、ボスニアのムスリムは一方的な被害者であるかのように西側メディアでは伝えていますが、全くそうではないことに注意する必要があります。

アルカイダのオサマ・ビン・ラディンを始めとしてサウジアラビアや中東各地から少なくとも4,000名のムジャヒディンのテロリストがボスニアへ行きムスリム軍と一緒にセルビア人民間人に対して襲撃をしていました。(殺害するだけでなく頭部切断等の残忍なことも行われました)

 

そして、スレブレニツァがボスニアのセルビア軍(スルプスカ共和国軍)に包囲された時、国連(主にオランダ軍)が介入したことで「安全地帯」としてそこが武装解除されていなければいけなかったはずなのに、その後もスレブレニツァからはボスニアのムスリムによって頻繁に周辺のセルビア人の集落が襲われ、約2,300人のセルビア人民間人がイスラム教徒によって殺害されたという事実が完全に無視されています。(情報源はこちら

 

ボスニア・ヘルツェゴビナの戦時大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチも「スレブレニツァとゼパを『保護地域』にすることに成功したが、その直後「ボスニア・ヘルツェゴビナ軍は(スレブレニツァに)武器を送ろうと全力を尽くした」と自ら証言しています。「武器を搭載した合計80機のヘリコプターがスレブレニツァに送られた」とのことです。

 

つまり国連がセルビア政府との交渉で設置した「安全地帯」が全く機能せず、ボスニアのムスリムから相変わらずセルビア人集落への攻撃が続いていたということです。(一方、セルビア軍は安全地帯にいるムスリムへの攻撃は行っておらず、女性と子供を避難させました。)

 

そして、女性や子供がスレブレニツァから避難した後に残ったのは16~66歳の戦闘ができる年齢の男性のみで、彼らは武装解除されておらず、周辺のセルビア人の集落を襲っていたのですが、なぜか、「安全地帯」に留まるのではなく、セルビア人支配エリアを通って別のムスリム支配下の飛び地へと移動する という、敢えて危険な作戦を取りました。

 

ですから、いわゆる「スレブレニツァの虐殺」の被害者の多くはその飛び地へ移動する間の戦闘中に亡くなったと見られています。もちろん、セルビア人の「スルプスカ共和国軍」が全くの無実だとは私は言いません。戦闘中に確保したムスリム人の捕虜のうちの少数は殺されているので、これはセルビア人集落が襲われて民間人が殺された「仕返し」であると思われますが、捕虜を殺すのは戦時法に違反していますので、この部分では戦犯だと責められても仕方がないでしょう。

 

しかし、セルビア人の集落は この「スレブレニツァの虐殺」事件前から頻繁に攻撃されていて、かつて1990年代の戦争前、セルビア人はスレブレニツァの人口の25%を占めていましたが、戦争の終わりまでにセルビア人は一人もいなくなってしまいました。(情報源はこちら)また、スレブレニツァとブラトゥナツの自治体だけで、93のセルビア人居住地のうち82が破壊されています。

 

これらのセルビア人民間人が受けた激しい暴力、虐殺を考えれば、武装したムスリム戦闘員が「安全地帯」以外の場所に移動している最中にセルビア人が彼らを戦闘で殺害するのは 「自衛」とも言えますし、セルビア側は、ボスニア軍側の指揮官であったS.ハリロヴィッチとの合意と国連安全保障理事会の決議819の両方を尊重していた という記録があります。(ですから「安全地帯」内にいるムスリムには攻撃はしていなかった)

 

このことが完全に国際社会からは無視されて、ボスニアのムスリムだけが一方的なセルビア人による「処刑の被害者」だと報道され、今でも歪められて伝えられているのです。

 

そして、スレブレニツァでの事件について、非常に怪しい点がいくつもあります。

それは以下のようなことです。

 

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1. ボスニアのムスリムの犠牲者の数が非常に誇張されている。

これは公称8,000人台 とされているようですが、お墓が見つかったのは約2,000人分だけ。残りの6,000人分が衛星画像も使ってボスニア・ヘルツェゴビナ全土で長期間発掘調査を行っても見つからない。調査によれば、実際の死者数は2,300人以下ではないか と言われていて、そうなると、ボスニアのスレブレニツァ周辺で殺されたセルビア人の民間人の数2,300人と「スレブレニツァ事件」で殺された武装した多くの戦闘員も含んだムスリムの死亡者数がほぼ同じになってしまう。

 

1995 年 7 月の「スレブレニツァ事件」の参加者のハーグ法廷での証言 およびその他の情報に基づくと、スレブレニツァ出身の 16 ~ 66 歳の男性のうち「射殺」されたのは 2,300 人以下であると結論付けることができる。(情報元はこちら

女性や子供はすでに避難しており、ムスリム女性の被害者で確認されているのはたった一人である。

 

2.ボスニアでセルビア人に罪を着せる偽旗の攻撃もすでに行われていた

ボスニアの首都のサラエボで、1992年5月27日、パン配給の行列に並んでいる一般市民に向けて砲撃があり、サラエボ市民26人が死亡した事件で、それが当初セルビア軍のせいにされたが、のちにボスニア軍による自作自演の偽旗作戦だったことがバレている(サラエボのパン行列虐殺事件)。よってボスニアのムスリムによる被害者としての証言を裁判で証拠として採用するのは公平性を欠くが、それが行われた。

 

3. ICTY(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷)が そもそも中立な組織ではなく、NATOの影響を強く受けている組織

だからセルビア人の戦犯だけが重罪になり、最も酷い民族浄化を行ったクロアチア人とボスニアのムスリム、コソボのアルバニア人は有罪になった人数もセルビア人より極端に少なく、軽い罪にしかなっていないのが そもそも著しく公平性を欠いている。

 

4.ビル・クリントン当時米大統領と当時のボスニア大統領の間で密約があった

スレブレニツァでの事件の当時米の大統領を務めていて、後にセルビアを爆撃する命令を出したビル・クリントンは「ボスニアで5,000人のムスリムが殺害されたら軍事介入する」という密約をボスニアの戦時大統領イゼトベゴビッチと結んでいた。

しかもそれを考案したのがスレブレニツァでの事件の2年も前の1993年である。→ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦にイスラム教徒側からNATOが直接軍事介入する口実を得るために、約5,000人のイスラム教徒を殺害するというイゼトベゴビッチ=クリントン戦略(1993年に考案)の一部であった可能性もある(情報元はこちら)つまり、最初からNATOのセルビア・モンテネグロへの軍事介入ありきで計画が進んでいた。 

 

5.当時のボスニア・ヘルツェゴビナの国連ミッションの公式代表、明石康氏の見解が無視された

1995 年の夏から秋にかけて、ワシントン(米国)もブリュッセル(EU)も、スレブレニツァでの出来事の責任をムスリム側に帰した明石康氏 (ボスニア・ヘルツェゴビナの国連ミッションの公式代表兼代表) の見解と説明を考慮に入れなかった。

しかし、スレブレニツァに関する明石康氏の報告に対する世論の批判は、プロパガンダを推進したい者たちにとっては望ましい効果をもたらした。それは、国連の無力さを露呈させ、同時に、米国が率いる NATO という新しい国際的な「平和推進機関」の有効性を広めた。

 

6.スレブレニツァの「安全地帯」を警備していたオランダ軍がムスリム軍に何度も警告していた

スレブレニツァの「安全地帯」を警備していたオランダの「ブルーヘルメット」部隊が、ボスニアのムスリム軍の指揮官、ナセル・オリッチの兵士たちにスレブレニツァ周辺のセルビア人村落への攻撃をやめるよう何度も警告していた という事実が無視されている。(情報元はこちら

国連基地を去る際、オランダの平和維持軍はボスニアのセルビア軍(スルプスカ共和国軍)ラトコ・ムラディッチ将軍から贈り物を受け取り、セルビアの軍と心をこめて別れたことがビデオに記録されている。(しかしその後、オランダは「虐殺を防げなかった」と西側各国から非難された)

 

7.ネオコンのマデレーン・オルブライトが推進したのがユーゴスラビア内戦である

セルビア軍によるスレブレニツァ陥落直後、マデレーン・オルブライト米国国連大使は安全保障理事会で、米国の諜報衛星が撮影したとされる"大量墓地"とされる写真を掲げ、「スレブレニツァのイスラム教徒の大量殺戮があった」と発表し、同時にボスニア・セルビア人に対する国連の介入を求めた。→ユーゴでの内戦介入の後は2003年のイラク戦争を推進したことでも知られているネオコンの戦争好きなマデレーン・オルブライト氏が国連やNATOの介入を求めること自体が あからさまに この事件がプロパガンダとして利用されたことを示している。

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他にも色々とありますが、ボスニアのムスリム、クロアチア人、ムスリム軍を支援したテロリストのムジャヒディン、NATOにとっては 上記のような事が世界中に知れ渡ると非常に都合が悪く、それが28年以上経った今でも、セルビアとセルビア人悪魔化のプロパガンダを推進し続けなければならない理由のようです。

 

ちなみに、このスレブレニツァ・メモリアルデーの国連決議を推進したドイツは1941年10月21日、ナチスドイツ占領下のセルビアの町クラグイェヴァツで、300人の未成年の高校生を含む16歳から66歳の男性市民2,300人を射殺しています。スレブレニツァでの事件が「虐殺」ならば、このナチスドイツによるセルビア人の市民虐殺事件は「虐殺」や「ジェノサイド」ではないのでしょうか?

 

1941年、ヨーロッパのドイツ人は、ナチスドイツと戦っていたセルビア人反乱軍によって殺害された「ドイツ兵1人につき100人のセルビア人民間人を射殺」し、「負傷したドイツ兵1人につき50人のセルビア人民間人を射殺」しています。これも「虐殺」や「ジェノサイド」と言えるのではないでしょうか。

 

これとは対照的に、1995年には、「バルカン半島のセルビア人」は、スレブレニツァとその周辺で殺害されたセルビア人1人につき、およそ1人のボスニアのムスリムを殺したことになりますが、それが本当に「計画的な虐殺」や「ジェノサイド」、「民族浄化」と言えるでしょうか?

 

以上、今回ご紹介した色々なデータは 全て 北米、ヨーロッパ等の色々な国の研究者の方が調査したデータを公開している「スレブレニツァ歴史プロジェクト」のHPから取り上げたものです。かなり膨大な情報が詰まっている英語のページですが、ご興味のある方はその一部でもいいので、和訳して読んでみてください。

 

コソボ紛争でもそうですが、ボスニアのムスリム軍には 中東からやってきた大勢のイスラム教徒のテロリスト(ムジャヒディン)が混じってムスリム軍を応援し、セルビア人を攻撃していました。その中に故オサマ・ビン・ラディンもいました。

 

また、旧ユーゴスラビア地域で 最も酷い「民族浄化」を行ったのはセルビア人ではなく、クロアチア人です。ユーゴ内戦での「嵐作戦」での民族浄化も酷いものでしたが、遡れば、クロアチアは 第二次大戦中はナチスドイツの側についてセルビア人を虐殺していました。(そのクロアチアのファシズム政党は「ウスタシャ」と呼ばれている)

 

 

私は この「スレブレニツァの虐殺」と呼ばれる事件は 日本が今でも責められる原因になっている「南京大虐殺」とよく似ている と思っています。

 

犠牲者の数がかなり「水増し」されていたり、軍服を着ていない便衣兵が殺されても それは違法ではないところが(便衣兵はハーグ陸戦規約23条2項違反なので保護の義務はない)、「100人斬り」等の作られたストーリーによって、多数の民間人が虐殺された とか、当時の南京市の人口を超えた数が虐殺された とかいう、嘘の話がプロパガンダで拡散している状態の、「南京大虐殺」とそっくりなのです。

 

しかし、そのプロパガンダ戦でやられてしまっている日本が 対米従属一辺倒で、当時のボスニア・ヘルツェゴビナの国連ミッションの公式代表兼代表明石康氏の報告を あらためて精査もせず、この「スレブレニツァの虐殺の捏造」の記念日制定に賛成票を投じたのは 大変残念なことです。

 

日本はコソボ戦争においても セルビアの古都であるコソボを「独立国」として世界で真っ先に承認する という大きな過ちを犯しています。

コソボでセルビア人に対してムスリムのアルバニア人が何をやったか、それはセルビア人の虐殺と「臓器密売」です。

 

コソボ戦争前までは「テロリスト」としてインターポールに登録されていたコソボ解放軍のトップ、ハシム・サチ氏は ネオコンのマデレーン・オルブライト国務長官によって「自由の騎士」として持ち上げられ、コソボ戦争後は初代大統領にまでなりました。(しかし今は梯子を外され2020年、コソボ内戦での戦争犯罪でハーグの特別法廷へ移送されました)

 

そしてコソボには欧州最大の米軍基地がおかれ、本来戦争犯罪人であるはずのビル・クリントン氏も銅像が建てられるほどの英雄になっています。

 

 

かつてテロリストだった連中が米の侵略戦争によって「英雄」へと"ホワイトウォッシュ"されてしまった例というのは ウクライナ戦争でのネオナチのアゾフ等も同じですね。

 

戦争は戦線でのバトルだけではなく、プロパガンダ戦の要素も大きく、ユーゴスラビアの内戦以降、「広告代理店」が大きく関わるようになりました。

このことは 「戦争広告代理店」という本にも詳しく書かれています。

ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

 

 

戦争広告代理店に多額の資金を流し込んでセルビア人だけを悪魔化するキャンペーンをやったのが米国やNATOで、その重荷を今でも背負って、スレブレニツァの事件では事実に反することを政治的圧力によって認めさせられたり、何度も謝罪させられているのがセルビアです。(一方、最も酷い民族浄化を行ったクロアチアは一切謝罪なし)

 

しかし、プロパガンダ戦では圧倒的にやられてしまっていますが、それでもスレブレニツァで「意図的な虐殺」や「ジェノサイド」や「民族浄化」は行っていない ということはセルビア政府は言い続けています。

 

プロパガンダ戦で今現在は負けていても 主張し続けることは非常に重要なことで、「ごく一部の者が『仕返し』として少数の捕虜の射殺を行ったのでそれは戦争犯罪になるが、国や正規軍が命令したものではないし、意図的な虐殺も民族浄化も行っていない。むしろムスリム軍やクロアチア軍の暴力によるセルビア人民間人虐殺の被害が大きかったのだ」というのが本当のところですので、このことを堂々と主張してほしいと私は思います。(現在の多くのセルビア国民は「政治的圧力」によってこの事実を主張できなくなっている というところがまた、戦後の自虐的な日本と似ています)

 

しかし、プロパガンダで嘘を世界中にばら撒かれると、後世の人達にも重荷を背負わせる事になるので、きちんと反論していくことは重要と思います。

 

日本への「南京大虐殺」や「慰安婦」「徴用工」についての隣国からの攻撃についても きちんと残っている証拠を提示して、1つ1つ反論していくことが重要なのです。

 

 

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