おはようございます、沙久良です
台風の進路が気になりますね 明日から3日間鳥取県東部へと出張するので、天気予報とにらめっこです。鳥取県東部への影響はあまりなさそうですが、この1ヶ月ちょっと積み重ねて解いてきた仕事の〆なので、出来れば穏やかにすましたい。まあ、そこは神様の気分次第という事で
今日もイズクエの続きです お付き合い、よろしくお願いします
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拝殿の扉を開けて昇殿し、神々に参拝
雪深いこの地で雪の重みに耐える立派な造りの社は、外で参拝するのとはまた違った響きで柏手の音が広がっていく。それはまるで水の中の様。波紋の様に広がっていつしか木に吸収されて消えていく、波紋もまた広がり続けてやがて水の中に吸い込まれて行く様に。
(闇の中に光が消えていく様でもあり、光の中に闇が消えていく様でもある。)
メートルを超す雪積るこの地にあって、太く立派な木で造り覆うこの社は洞窟の中の様でもあった。まさに岩戸の中とも言えよう。人工的に作った神の体内に入り、力を得て再び蘇るその一連の儀式を簡易的に体験させてくれる様な神社だ
2人を視れば、撫子ちゃんはほんのりと輝き、竜胆さんは強く輝いている これは人生の経験の差とも言えよう。当然の事ながら、母親である竜胆さんの方が経験値は高く、どんな所に居ても一定の輝きを保ち続けられる けれどまだ10代の撫子ちゃんは輝きが不安定だ 故にそれがほんのりと輝いている様に視える。
幣殿という洞窟は、例えるなら子宮なのだろう。参道が産道で、今は神の子宮の中にいる様なものだ。男神であれ女神であれ、それらを祀る社は全てその様な神の子宮の造りをしているのかもしれない 社の鰹木で男神か女神かが分るというが(もちろん例外もある)、それも神社の境内を子宮に見立てれば、本殿は胎児のようであり、それを深く抱き力を与える大地は母なのだろう
(系列の違う神社に参拝すると、また違った見方が出来るから面白いな。)
それが正しいかどうかは別として、ただそう思うだけで、ここがさらにとても居心地の良い聖地に感じた
(今回のイズクエはまるで、魂が神の世界から人間の世界に降り、命が宿って子宮の中で成長する様を感じさせる様だわ。)
形無きものから形在るものへと変化するかの様に、この人の世に留まれる様に肉の器を持つ。命という火を留める器は、多くの水から成り立ち、火と水の間に存在する人間と成るのだろう。
(そういう風に考えるとまた、人にとって神社という空間は特別な場所なんだろうなぁ…。)
もちろんこれは神社だけではなく、他の聖なる場所にも言える事だが、ただ日本という国では神社という形になっただけの事だから
そう考えると、当然の事ながら母である竜胆さんの方が輝きが強いのも納得がいく。母ではない私はきっとこの場ではこの空間に馴染み過ぎて視えないのかもしれない もしくは、既に自分以外の何かが降り、違う輝きになっているかもしれない 残念ながらその辺りは自分ではよく分からない。
(ま、それはいっか。私は案内人で、取次役だから、私の輝きも色もなくてよし。)
その様に自在に自身の輝きも色も変化させ、表に出さない様にする、それもまた巫として必要な素質なんかもしれない。
幣殿から降り、拝殿の扉を閉めて本殿へと向かう 2人とも立派な造りの本殿に見とれていた
「やっぱり違いますね、御神氣の濃さというか大きさが。撫子に御神氣を補充させたいけれど、なかなか見つからないんですよね、こういう神社が。」
「そうですね、愛知県だと探すのが大変かもですね。なんせ戦国の世にしろ、戦争にしろ、数々の戦火に遭って来た土地ですものね。そんな私の住む石見地方も、同じく大きな神社って少ないんですよ。力ある武将がいなくて、数々の戦火で燃えて、また治める者が変わるのでその時に祀っている神を変えたりもしてるので。
なので、こういったずっと手厚く保護され、奉仕されて来た神社は本当に素晴らしいと感じます。淀みも穢れもなく、御神氣が清らかで強い。聖地の名に相応しい場所であり、急速充電するにはいいんですよねぇ。本当、御神氣無くなると辛いから…。」
「うんうん。」
頷く撫子ちゃんを見て少し困った様に微笑み、再び本殿を見上げる竜胆さん いつか撫子ちゃんにぴったりな神社が住んでいる地域から近い場所で見つかればいいなと思った。
こればかりはただ神社が大きく立派であればいいというのとも違うのだ。神社にも相性がある。それぞれの魂の系譜に沿った神々が祀っていなければ難しいだろう。系譜や系列の違う御神氣というのは、かえってどっと疲れる事もある。言うならば吞みなれてないお酒を呑む様なもの 普段ビールを呑む人が日本酒を呑めば悪酔いする事もあるし、日本酒を呑む人がウイスキーやブランデーを呑めば悪酔いしてしまうのと同じ様に。
また、違った環境で気疲れしてしまうのとも似ている。悪くはないが兎に角疲れるし、または枕が違って寝れない夜の様でもある。その時の状況を解りやすく知ってもらう為には、様々な例えも必要だ。自分の過去体験した事のある例えだと、それがすんなり理解出来るからだ
これもまた、巫覡力と人間性が比例しない様に、その人本人の知識量によって変わる。巫としての力を発揮するなら、巫覡力だけ磨いても役立たない方が多い。なぜなら、現代はどんなに巫覡力が高かろうが、多くの人と関わって生きねばならないからだ。
(本当、昔の様に降ろす、伝える、実行する、治めるなどなど、役割が違っていたなら巫覡力が高いだけでいいんだけどねぇ。そこに人間性なんて関係はないわ、それしか求められないんだもの。)
故に現代は巫覡力が高いと生き辛いかもしれない。けれど、その代わりとして自由があるのだけど。
(自由には自己責任がワンセット。だからこそ育つ環境と本人の努力は必要。そして周囲の協力と理解も必要。例えそれが人でなくてもいい、だっていつでも神社では神々がまるで実家の様に、門戸を開いて待っていてくれている。歓迎してくれる。悲しみで氣が枯れても、その穢れを祓ってたくさん補充してくださる。やはり神社は形を変えた子宮なのかもしれないねぇ。)
人は誰しも母の子宮で命を育み、育てられたのだから、神社(ここ)へ戻ればいい
どんな氣枯れも母なる愛で包み込み、悲しみを癒して御神氣という愛を与えてくださるから
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「…ところで、お腹空きません?もうずいぶん前にお昼は過ぎましたけど、どうでしょう?」
「私は空きました~!撫子はどう?」
「え?もうお昼過ぎたの?う~ん、そこまででもないかなぁ。」
「え、そうなの?私はさすがになんでもいいからお腹に入れたい…。」
御神氣を補う以上に、身体の成長の為にご飯はちゃんと食べた方がいい。その方が案外重大な問題かもしれない、そう思った私だった
続く~
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