どうしても直視できないもの | あきりんごの「読みたい」プロレス

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プロレス観戦記など。趣味は深読み、特技は誤読。ゆるゆるいきます。

(※この記事は2018年10月23日に書かれたものです)

あんまりこのブログでこんなことを書こうとは思っていなかったのだけど、休止中だし、自分の考えをまとめるためにもひっそりと書いてあとでしれっと公開しようかと思う。


週刊プロレスの表紙で、全裸の男(もちろん後ろ姿だけど)と、タイツをずり下げてガーターベルトと網タイツを身につけた男が大写しになっていた。
プロレスラーの鍛え上げられたバックショットをご覧くださいとか、そういう文脈とは明らかに違っていた。
どうやら、両国国技館のリングで全裸になることは、なんらかの覚悟を示すことらしい。

これを買わせて、編集部はプロレスファンに何を伝えようとしているのだろう……?
あとで立ち読みしてみるけれど、今のところ私にはわからない。

それはさておき。


Twitterで「新日本やDDT、大日本は観に行かないんですか?」と聞かれた。
私はプロレスマスコミではないので、その質問に対して「優先順位としては低いですね」ぐらいの回答はできるわけだけど、私自身、DDTという団体に関して、どうしても直視できないものがある。

それは、

「只今より入場いたします○○選手は、ホモでございます!!」

という場内アナウンスと、それに爆笑する観客との、無自覚な共犯関係。

「ゲイレスラー」というギミックが、現実のゲイを知ることにクソほどの役にも立っていないという証左であると思う。あまつさえ、「ホモ」という侮蔑語すら、当然のごとく用いられている。
「いやいや、彼はDDTのアイコンだから。彼の存在があるからこそDDTは面白いんだよ」と言いたい人もいるはずだ。
しかし、私は考える。そのことばの後ろに、こんな意識が潜んでやいないかと。

「いやいや、彼はホモだけどDDTのアイコンだから。彼の存在があるからこそDDTは面白いんだよ。ホモだけど

決して考え過ぎではないと思う。
マスメディア側の人間のブログにも、こんな記述があった。


“里村の対戦相手は男色ディーノだった。女子プロレス界の横綱、里村明衣子が、ゲイレスラーの男色ディーノに勝った。こう書くと試合を見ていない人たちだったら「ありそう」というふうに感じるかもしれない。でも、いくらゲイレスラーといってもディーノは生物学的に男なんだということを、今更のように今日は試合を見てつくづく感じた”

“男子だとか女子だとか、ゲイだとかいつでもどこでも挑戦権だとか、そういったことを超越して凄い試合だった”

男子レスラーでも、そのセクシュアリティがゲイだとしたら、女子レスラーに勝てないことも「ありそう」なことなのだろうか?
「いくらゲイレスラーといっても」「生物学的に男なんだ」「男子だとか女子だとか、ゲイだとか」とはどういうことだろう?ゲイであることは、生物学的に男であることを疑わせる、あるいは男とも女とも異なるなにかを示す事実なのだろうか?

これらの表現は、あろうことか、「女性の生きづらさ」を語る文脈のなかで登場していた。
要するに、彼女の記事の趣旨はこうだ。

「男(ホモだけど)と1対1で真っ向勝負して勝てる里村さんに敬意を表します!」

「女性の生きづらさ」を乗り越えんとする里村さんのカカトに自らを投影しながら、そのカカトでゲイを足蹴にしている。
ディーノを、ではない。そもそもディーノが実際にゲイかどうかなんて、そんな個人のセクシュアリティにかかわる問題に触れること自体が間違いだし、議論の外にある。
「嫌なんだったら見なきゃいいじゃん」でもない。そんなことを言われなくても、私は私のさじ加減ですでに見ない自由、金を落とさない自由を行使している。
「20年あのキャラを通してる人に今更そんなことを言うのはおかしい」も腑に落ちない。私はあの人の20年のうちの半分も知らないけれど、そういう新参者の声は届かないものなのだろうか。
「プロレスファンはあらゆる価値観を許容するものだ」もおかしい。そんな狭いプロレス村の話にはとどまらないし、「ホモ」であることを笑うという構造のどこに、許容されるべき価値観があるのか。

これは、「ホモ」というアイコンを利用して、世の中に生きる多くの同性愛者を貶めることを、興行主と観客、あるいはマスメディアとの協同で追認していないだろうか、という問題提起だ。


という問題提起をした私の心のうちにも、そういう側面は保持されてきたように思う。

私自身はゲイではないけれど、見る人によっては「オカマ」と揶揄されるようなセクシュアリティをもっている。
そんな私はかつて、「オカマ」と揶揄されることも、自分の住む街の首長にLGBTQについて「どこか欠けているところがある」と発言されることも、さらりとかわせるのがスマートであり、「正しい当事者」であると信じていた。そして、「ゲイギミック」をもつプロレスラーがセクハラ攻撃を武器としている事実に対しても。
それは、LGBTQとしての私と、プロレスファンとしての自分とが引き裂かれないようにするための方便だったのかもしれないけれど、一方で、自己肯定感の低さゆえの私自身の承認欲求の裏返しでもあったように思う。「分別のある、物分かりのいい当事者」像を身に纏っていたいだけだったのだと、今になって振り返る。
まるで、いじめを受けていたところから一転していじめる側に転ずる子どものような、もしくは、女性蔑視の発言を繰り返すことで男性議員に取り入ろうとする女性議員のような。
いわば、「名誉プロレスファン」だ。

目が覚めたのは、ある日、先に挙げたシーンをテレビで目撃した瞬間だった。

「只今より入場いたします○○選手は、ホモでございます!!入場の際は大変な興奮状態にあるため、男性のお客様に対してセクシュアルハラスメントを加える場合がございます!皆様くれぐれも、ご自分の身はご自分でお守りください!!」

そのアナウンスで、場内は爆笑の渦に包まれる。
一呼吸おき、入場曲に乗って、「ゲイレスラー」が飛び込んでくる。客席を練り歩いて、男性客の唇を無理やり奪う。女性客を足蹴にする。阿鼻叫喚、一様に笑う観客。セクハラを受けるかどうかは自己責任。「ゲイレスラー」と目が合うことは、まさしく「スリル」なのだろう。

それまで彼の入場シーンをまじまじと見たことがなかった私にとって、このくだりは衝撃的だった。

「ホモ」をネタにする興行主も、「ホモネタ」に笑う観客も、この会場の何%かの観客(あるいは視聴者)を笑い者にしているという事実に気づいていない。
言い換えれば、この人たちにとって「ホモ」は、招かれざる客であるどころか、想定すらされない客なのだ。「ゲイレスラー」という概念を通して見る、ただのファンタジーなのだ。
この共犯関係の渦で娯楽を享受できるのは、マジョリティの特権に幸せにも気づいていないマジョリティか、マジョリティに加担することで自分の身を守りたいマイノリティ、すなわち今の今までの私みたいな人間だと。
私は、「そもそも“男色”は一方的な搾取関係の上に成立してたんだし」とか、「この人はゲイギミックにしかよりどころがないんだから」とか、「ゲイとか関係なくいちレスラーの自己表現なんだからいいじゃない」と「寛大な目」で見つめていた、それまでの自分を恥ずかしく思った。これじゃ、私も共犯者じゃないか。

そこで私は、小学生相手のアルバイトをしていた頃のことを思い出した。
カミングアウトはしていなかった(というかさせてもらえなかった)が、髪の長い私は、それだけの理由で子どもたちから「オカマ!」とからかわれるようになった。
それまで「オカマ」であることを理由にいじめられたり、からかわれた経験をもたなかった私は、少なからず傷ついた。
その傷つき体験を消化するために当時の私ができたことといえば、「オカマなのは間違いないし、子どもたちなりのコミュニケーションの取り方なんだから大目に見よう」という納得だった。けれどその一方で、私の心のうちには「私はオカマなんだ、周りから見ればおかしな存在なんだ」という自己否定のことばが、べっとりと貼りついた。
あのとき私が、「オカマって言われたら傷つくから言わないでね」と子どもたちに伝えることができていたら。もしかしたら子どもたちがあれ以降他人に「オカマ」という言葉でからかうのを止めることができていたかもしれないし、私が私自身の心に「オカマ嫌悪」を抱えることもなかったかもしれない。

「ホモでございます」というアナウンスと嘲笑は、そんな過去の苦々しく恥ずかしい自分を色鮮やかに思い起こさせる、そんな引力を今でも持ち続けている。
直視し、明確に拒絶し、あるいは批判することばを得たとき、私はそこでようやく、「オカマ」とからかわれた過去を清算できる、そんな気がしている。


「分別のあるマイノリティであること」は、「分別のないマジョリティを射精させること」以外の役には立たないのだ。

誰だって「差別されるより差別したいマジで」と思う。他人より自分の方が優れていると思いたいものだ。だからこそ、まずは自分の差別心に気づくところから始めたい。
過去の醜い自分は、同じ失敗を繰り返さないための自分のアップデートに利用するしかない。
もう、黙らない。
黙っている必要など、ない。
プロレスが好きだからこそ。


……と、サイバーエージェント傘下の会社の批判をアメーバブログに書いてみた。