あきりんごの「読みたい」プロレス

あきりんごの「読みたい」プロレス

プロレス観戦記など。趣味は深読み、特技は誤読。ゆるゆるいきます。

Amebaでブログを始めよう!

私がプロレスリングNOAHの試合を最後に現地観戦したのは、2021年2月12日、日本武道館大会です。

あれからもう二年の月日が経とうとしています。

なぜ私が観戦から離れたか、もっと言えばなぜプロレスから離れたのか。

今更その理由をここで書くのには少し躊躇もありますが、とはいえ何も言わないのもアホくさい気がしたし、その当時と比べると気持ちも整理できたので、やっぱり書いておこうと決めました。

このブログを楽しみに読んでくれていた人も少ないながらにいたはずで、すっかり更新が途絶えてしまい、本当に申し訳なかったです。ちゃんと説明はしておこうと思います。


先に書いた通り、私はそもそもここ二年の間、団体関係なくほとんどプロレスを観ていません。

去年は、新宿FACEで九州プロレス、新木場でPSYCHO選手の周年、後楽園でセンダイガールズと三度観戦しました。それぞれ楽しく観戦しましたが、それ以降積極的になにかを追いかけているか、と言われると、なにもしていないのが現状です。

いくつか契約していた映像サブスクや週プロモバイル、プロ格DXもすべて解約しているので、いつどこでどんな興行があるかも把握していません。

情報を取捨選択できる現代社会、つながりを絶ってしまうと日常生活にプロレスが入り込んでくることはほぼないんですよね。

これがたとえば野球やサッカーだったら、テレビのニュースで試合経過が伝わってくるので、嫌でも情報が入ってきたのでしょうが、プロレスはというと…。今日のプロレスが大衆娯楽のなかでどういう位置付けなのかを、皮肉にもプロレスから離れたことで痛感しました。


そんな私でも、武藤敬司が引退することぐらいは知っていますし、お正月にグレート・ムタと中邑真輔が戦ったことぐらいは承知しています。

というわけで今回は、武藤敬司について書いてみようと思います。

言いたいことなら他にも山ほどあります。ありますが、私にとって決定的だった出来事が武藤に関連するものだったので、あえて内容を絞ります。

あらかじめことわっておきますが、この二年間、私は武藤敬司を心から軽蔑していますし、ここからの文章も、武藤敬司に対して好意的には書きません。私の文章を読むことで、気持ちよく武藤を送り出したいファンの方にとっては不快な気持ちになるかもしれませんし、引退試合に冷や水をかけられた気分になるかもしれませんが、私は一切責任を負いかねますのでご了承ください。だって私のせいじゃないし。

加えて、ここからの内容には性的あるいは性差別的な表現、セクシュアル・マイノリティ差別に繋がる表現(もちろんここではっきり批判しますが)が登場しますので、注意のうえお読みいただけたらと思います。

では、見ていきましょう。

私のプロレスへの熱がスーッと引いていくきっかけになったのは、2021年2月6日、東京スポーツに掲載されたこの記事でした。


https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/222069?page=1


(以下引用)

大ベテランは野望も尽きない。ノアの試合がABEMAで放送されスマートフォンなどでも見られるようになったこともあり、女性を中心に若者のファンが増えていると分析した上で、こう続ける。

「そういう若いファン、特に女の子なんか、こんな還暦近い“ハゲチャビン”に最初はときめきはしねえだろ。一見、清宮(海斗)とかのほうが目に留まるってのはわかってる。でも、試合してるうちにこっちに感情移入させることが俺の優越感というかさ。その中で若い女の子が『あの人、清宮よりかっこいいわ』って子宮をうずかせる試合をできたらいいよな」

(引用終わり)


武藤の同じ発言は、週刊プロレスでも報じられました。それを、某日本プロレスの某選手(エゴサ回避)が肯定的に取り上げていました。


https://twitter.com/yoshitatsuism/status/1354373497636540417?s=46&t=Mc9FX01F03nupltwDk6CQA

 


この発言を目の当たりにしたとき、これが20代の娘さんをもつ父親の発言かよ、という呆れや軽蔑はありましたが、怒りという感情は実はあまりありませんでした。

どちらかというと、プロレスというファンタジーから急速に現実へ引き戻されていく感覚があり、その感覚を冷静に受け止める自分がいました。

あ、この人ファンの女性を子宮で見てるんだ、自分が勃起するかどうかで見てるんだと。この人の本体はキンタマなのか?

あれ以来、私は武藤が大きなキンタマにしか見えなくなってしまいました。

こうなるともうプロレスどころじゃないですね。

キンタマによるドラゴンスクリュー、キンタマが放つシャイニングウィザード、キンタマから毒霧。

最高に滑稽だし最高に気持ち悪いです。


「気持ち悪い」


発言した武藤個人の問題にとどまりません。これは「プロレス村」全体の、構造上の問題です。発言を許した団体も、それを無批判に報道した東スポも週プロも、何も言わないファンも、全部が全部気持ち悪く思えました。

今振り返ると、あの時点でもう、心がプロレスの中になかったのでしょう。


私にも20代だった頃が当然あって、その一番苦しかった時代に、がんを克服した小橋建太のプロレスに救済された人間です。その記憶をよりどころに、プロレスを見つめ続けてきました。プロレスには希望があると思っていました。

しかし、私がプロレスというファンタジーに向けてきた気持ちは、あまりにも空虚だったことを知りました。ダメージが大きすぎました。


そんななかで生観戦した武道館大会。

すべての試合を観たうえで、喜怒哀楽のどの感情も起こらなかったことに、自分でも愕然としました。

私にとってこの時間はなんだったんだろう。あんなにノアが武道館に帰ることを願っていたのに。

結果的にその日が、ノアを生観戦する最後の機会となりました。


武藤発言のなにが問題だったか理解できない方は、すでに他の方が丁寧に書かれているので、そちらをご覧ください。

いえ、その前になにが問題なのか考えてみてください。イメージしてみてください。あなた自身が、部下の若い女性に同じ発言をしたらどうなるか。愛する妻や娘の前で言ったらどうなるか。

言えますか?言えませんよね?じゃあなぜ言えないんでしょう?なにが問題だと考えますか?

少なくとも、私の仕事仲間にこの話をしたら「とんでもない」「気持ち悪い」という話になりましたけどね。いろいろ問題はあれど健全な業界でよかったと安心したものです。

「正しさ」には唯一解がないからこそ、考え続ける必要があるわけで。まずは自分事として思考を巡らせるのがいいと思います。

「プロレスはファンタジーじゃん」って話ですか?性的な目を向けられているのは現実世界の生身の人間なのですが。リング上で起こることなら呑み込めても、ひとたび現実に投げ込まれたらアウトな事象なんて、山ほどあります。女性客って、金星品定めして首投げされるだけの存在なんですかね?なぜお金払って見てる相手にそんなサービスをしなければならないんだ?

武藤敬司ならなにをしても許されるのか??


そもそも、の話ですが。

興味ない相手から性的な感情を直接向けられるのは暴力なんですよ。黙って思うぶんには自由だけど、言動に表した時点でアウトなんですよ。

世の中にはいろんな女性がいるんです。男性に性的指向が向かない女性もいれば、そもそも他者に性的な関心をもたない女性もいます。さまざまな理由で子宮のない女性もいます。そういう女性は、プロレスファンの中にもいます。たくさんいます。

私はどのみち20代じゃないので、エイジズム丸出しおじさんの視界にも入らない存在ですが、件の発言で、20代の頃痴漢に遭った記憶が蘇りました(この国で痴漢に遭ったことのない女性なんていないと思う)。そして私はクィアでもあります。男性から性的な目で見られることはものすごく苦手です。「レスラーの肉体美に心奪われるプ女子が急増!」とか言われていた時期には、「私女じゃねぇのかな・・・」なんて思ったものです。

気持ち悪いですか?隣に住んでたら嫌ですか?いえ、あなたに下衆な品定めをされる筋合いなどなく、肯定されようが否定されようが、現実にそこにいるんです。

私がここで記事を書かなくなったのは、青木が亡くなったショックもありましたが、同じようにクィアを生きる仲間たちに、プロレスを勧められないと思ったから、というのもあります。


長いことプロレスファンをやっていれば、裏で女性客をモノ扱いするキンタマレスラーがほかにも少なからずいることは知っています。社会的マイノリティに対する差別的な発言をするレスラーも見てきました。いろいろ思うところを呑み込んで観戦してきましたが、それがよくなかったのかもしれません。さすがにもう無理でした。

キャリア39年、業界全体で惜しまれながら引退するレスラーが、キンタマにしか見えないんですもの。今までなんだったんだろう・・・。何に感動し、何に心奪われてきたんだろう。


プロレスを離れてからは、久しぶりに野球観戦組に戻りました。

そっちはそっちで救いようのない人間がいたりするものですが、別に接触があるわけでもなく、ファンに向かって子宮どうこうなんて言う選手もいないので(低レベルすぎるハードル)、ヤバいファンさえ避けておけば安心して観戦できます。

あ、週刊ベースボールは買いません。BBM社なんで。

ていうかアメブロの運営元、サイバーエージェントじゃん。ダメダメ。


そんなわけで、このブログに関しても、一区切りさせていただくことになりました。

今までご愛顧いただき、本当にありがとうございました。

過去の記事については、この記事を公開してしばらくのち、順次非公開に設定していきます。何卒ご理解いただければ幸いです。


それでは、またどこかで。

2019年5月20日、岩本煌史から世界ジュニアヘビー級王座を奪取してちょうど半年。
あれから一度として防衛戦が行われることのないまま、第51代世界ジュニアヘビー級王者の青木篤志は今日、王座を返上します。
半年経ってもなお私は、プロレス・格闘技DXで全日本プロレスの試合速報を開き、青木は出てないかなと確認し、そこにいないことを思い知ってページをそっと閉じます。
会場で二度手を合わせているというのに。



あれから私は、プロレスについてなにか書くことから逃げています。
いえ、ジャンル関係なく書くことそのものから逃げているかもしれません。
なにも書けない。
私の拙い筆力では。

悔しくてたまらないな。

私は物書きです。
いつまでも書くことから逃げててはいけないということは、頭ではもちろんわかっています。わかっているけど、わかるほどに書きたくないという気持ちも強くなる。
どうしたらいいかな。
けど、やっぱり、私には書くしか能がないから。

もう少し待っていてもらえればと思います。


私の心に、青木篤志のような強さがあれば。



こういうことがあったとき、もっといいカメラを持っていれば、と思うのです。

ならば物書きとして、なにかことばを紡ごうと思うのですが、無力なものです。こんなときに紡ぐことばなんて見当たりません。
ただ、なにかを書かないと、私自身の気持ちの整理がつかない気がして。今日一日ずっと頭が痛くて、痛み止めを飲んだのに、全然効かなくて。
だから、昨日のことを思い出しながら、なにをどう書こうか探ってみようと思います。
もしかしたら表に出すような記事にはならないかもしれないけれど……。


昨日、帰宅してスマホを開いた私は、ニコニコプロレスチャンネルの番組開始通知に気がつきました。
毎月楽しみにしている、「青木篤志の毒演会」。
そういえば今日だったな、本人の告知ツイートがなかったから忘れてたなと思いつつ、PCを開き、番組開始を待ちました。
しかし、待てど暮らせど番組は始まりませんでした。
無断で番組に穴をあけるような人ではないし、もしかしたら運営さんと団体との間で放送日に関する連絡の行き違いがあったのかもしれない、などと想像していたのですが、次第に不安が募ってきました。
毎回必ず車かバイクでスタジオに向かっていることを知る視聴者のなかでも、「青木は大丈夫なの?」といったコメントが目立つようになります。
けれど、私はどこか楽観視していました。
あの青木篤志が、そんなわけない。

そのうち、ニコプロでは、WPWというアメリカの怪しげなインディ団体の映像が流れ始めました。
しばらく始まらないなとわかり、ゲームをしながら始まるのを待つことにしました。
ところが、青木さんが到着するよりも先に、WPWの映像が終わってしまいます。
再び青木さんの宣材写真が映し出される画面。
さすがに気になったので、Twitterで「交通事故」と検索してみましたが、これといった情報は出てきませんでした。
そして、青木さんが現れることのないまま、青木さんが現在どういう状況なのかもわからぬまま、番組は中止となってしまいます。

きっと大丈夫だろうという思いの片隅に、ほんのわずかな不安を覚えながら、昨日の夜は過ぎていきました。

青木のことだから、きっと大丈夫。
けど、早くまた声を聞きたい。

そんなふうに思いながら、少しだけ胸がざわついてよく眠れない夜を過ごした私の元に、明くる日飛び込んできたのは、あまりにも悲しい報せでした。

事故の時刻を見るに、もしかすると急いでいたのかもしれません。
青木さんは、世界ジュニア王者に返り咲いたばかりでした。ベルトを持ってきてくれていたかもしれません。
そして、沖縄で試合があったときには必ず、ガチャガチャのお土産を買って、抽選で視聴者にプレゼントしてくれていました。そのお土産もきっとバッグに入っていたと思います。
あまりに視聴者のコメントを拾ってくれるがゆえに、ものの三時間で5000ものコメントがつく番組でした。こんなに遅刻したらまた視聴者に罵倒されちゃうなー、なんて話そうかなー、なんて考えていたかもしれません。
リング上では自分にも相手にも一切の妥協を許さない厳しい人でしたが、ひとたびリングを下りれば、視聴者を、ファンを、とても大事に思ってくれる、とても優しく、とても義理堅い人でした。


ここまで書いてぴたりと筆が止まってしまいました。
心が突然パリーンと割られたのを、レスラーたちの追悼のことばで必死に糊付けして繋ぎ合わせようとして、でも繋がらなくて、そのまま一日が終わろうとしています。

ふと、自分のブログを読み返してみました。
忘れもしない、2017年の王道トーナメント、北本大会。青木篤志vs鈴木鼓太郎の一戦が行われた日の記事に、こんなことが書かれていました。


時々、青木篤志の背中にぐっと惹き込まれることがあります。そんなときは決まって、涙が出そうになります。

思い出すのは、去年のチャンピオン・カーニバル最終戦でゼウスと当たったときのこと。
同じEvolutionのジョーが脳腫瘍で欠場となり、当時世界ジュニア王者だった青木が急遽ピンチヒッターを買って出たのが、去年のチャンカンでした。
並み居るスーパーヘビー級を向こうに回し、体格的な圧倒的不利をものともせず、不戦勝も含む3勝を挙げて臨んだ最終戦、エディオンアリーナ大阪第2競技場。決勝進出のかかったヘビー級のゼウスを相手に一歩も退かない真っ向勝負を繰り広げ、敗れました。
あの日の青木の背中には、欠場したジョーの無念も、全日本ジュニアの頂点の誇りも、出るからにはヘビー級に負けたくないという意地も、ずっしりと乗っかっていました。
どうしてそこまで背負い込むんだろう。それほど重いものを背負い込んで、どうしてそこまで凛と前を向けるんだろう。

この日の鼓太郎戦に臨む青木の背中からは、あのときのそれと同じものを感じました。
鼓太郎が日本のプロレスのジュニアシーンを見渡してもトップレベルの実力者であることは、青木も、いや青木だからこそ重々承知しています。でも、ここで青木が鼓太郎に負けたら、二年間全日本ジュニアを守り続けてきた足跡が無駄になってしまうし、青木だけでなく光留も洋平も、岩本くんも青柳くんも岡田くんもみんな含めた全日本ジュニアの敗北を意味しかねません。
ただ単に「鈴木鼓太郎のことが気に食わない」、それゆえの私闘という側面ももちろんあったんでしょうが、それだけにとどまらない青木の背負う覚悟、責任感、誇り、意地といったものを感じた一戦でした。
もちろん鼓太郎にも同じような気持ちがあったと思います。フリーとしてW-1やZERO1など様々な団体でベルトを奪取し、ジュニア戦線を盛り上げてきたことに、鼓太郎は絶対の自信を持っているはずです。だから、この日のシングルは、二人の離れていた二年間がどれほどのものだったのかの勝負であって、今回は青木が少しだけ上回ったということでしょう。

締めのマイクもなく、余韻と行間を残したまま花道を戻っていく青木の背中を、せつなさと狂おしさとを感じながら見送る私がいました。
私は果たして、この人とまっすぐ向き合えるような心を持っているだろうか。きっと持ってない。弱いから。
私も強くなりたいって、そう思いました。

私は今でも弱いままです。
あなたが亡くなったと知って、今日一日頭痛がおさまりません。
強くなりたいよ。なりたいけどさ。
あなたのかっこいい背中をもう見れないって急に言われてさ。
私はその事実に震えながら目を背けようとしているよ。
弱いよ。

私はあなたに、観客としての「プロレスリングを見る目」を鍛えられたように思います。
プロレスラーは、ただ試合をこなしているわけではない。
どうすれば相手を上回ることができるか。どうすれば勝つことができるか。
試合の戦略も、テーマ作りも、あなたの試合とあなたのことばを通じてより想像できるようになった気がします。ひとつひとつの「意味」を探すようになりました。
人一倍プロレスとまっすぐ向き合い、人一倍プロレスを大事に思うあまり偏屈なことばかり言っていたあなたのおかげで、私は立派で偏屈なプロレスオタクになれました。
そして、あなたのおかげで、より「プロレスリング」が好きになりました。

けれど、あなたの存在が大きすぎて、あらゆるものを背負うあなたの背中をただ眺めているだけだった私は、まだあなたの死と向き合うだけの強さを持ち合わせていません。
もっともっと、私に「強さ」を教えてほしかった。伝えてほしかった。

あと少し乗ればニコプロのスタジオだったじゃない!!
なんで!
よりによって武道館のすぐ近くで!!
チャンピオンがベルト放り出してどっか行ったらダメでしょ!!それで鼓太郎に怒ってたのに!!!
ばか!!!!!


くやしい。
せつない。
さみしい。
つらい。

三沢さんに会うのはちょっと待っててくださいね。
あの人もうすぐ帰ってくるから。三沢さん6月は忙しいから。
あなたの背中をリング上に見つけるその瞬間まで私は受け入れませんし。
14年間一度も試合を休んだことがない人です。次私が全日本プロレスを観に行くときだって、きっとリングに青木篤志がいると思うから。

私は、観客として、あなたの背中を追い続けます。
皆さんこんばんは、あきりんごです!

今回は、かねてよりTwitterやmixi(!!)上で交流させていただいていた、フリーライターの尾崎ムギ子さんの著作「最強レスラー数珠つなぎ」の読んでの感想と、出版を記念したムギ子さんを囲む会に参加してきましたよ、というご報告などをつらつらと書いていきます。


今回の著作は、日刊SPA!で連載されていた同名のインタビュー記事(リンク省略)の書籍化を記念して開かれたものでした。


私はムギ子さんの書く文章がとても好きで、それに、どこかシンパシーを覚えます。
ある友人をして、私の文章には「これを書かないと死ぬ」感じがあるそうで。
私も文章を書いてご飯を食べていこうとする人間なので、確かに書かないと野垂れ死んでしまうわけですが、そういうことではなく、切迫感とか圧力みたいなものがあるというんです。それはおそらく、淡々と文字を並べることをよしとせず、身を削り、喜怒哀楽を全開にしながら書いているからそう見えるのだと、自分では理解しています。
そして、その部分で、私は尾崎さんと似通っているのかなと思います。ムギ子さんに感じるシンパシーの正体は、「身を削る」感覚。
あ、それプロレスとも似てますね(笑)

なんといっても、ムギ子さんが日刊SPA!で連載を始めるに至ったきっかけの時点ですでに、身を削っていました。
自らの編んだ記事に怒った佐藤光留から、Twitter上で炎上という垂直落下式ブレーンバスターを食らっているのですから。
詳しい説明はあえて避けますが、私も当時、「いい男に抱かれたい」「最強より最高」と記されたその記事(実はムギ子さんの発言ではないけれど)を読んで、率直に思いました。
「少なくともそれは、私の好きなプロレスとは違う」と。
どこかミソジニー的な見方すら感じ(それもムギ子さんの発言によるものではないけれど)、ちょっとイラッとしたのも正直なところです。

ともかく、佐藤光留は、その記事を書いた見ず知らずの女性を、「絶対に許さない」と断罪しました。佐藤光留は、プロレスラーとして常日頃「強さ」を追求し、負けてよい試合などないと考えるタイプ。師匠鈴木みのる譲りの考え方といえます。そしてなにより、一度捕まると非常にめんどくさい。そんな人間を怒らせたわけで、メチャクチャ怖かったはずです。
ところが、おとなしくカウント3を聞けばいいものを、ムギ子さんはカウント2で肩を上げたのです。
じゃあ「強さ」とはなんなのか。それを知りたいと考えたムギ子さんは、あろうことか当の佐藤光留へのインタビューを試みました。

それが、「最強レスラー数珠つなぎ」の第一回でした。

この流れ、鮮明に覚えています。
だって、そんなライター見たことないですもの。しかも、後ろ盾のないフリーライターで。
私も本業の方で書いた記事で変な捉え方をされて困った経験がありますが、まぁイヤなもんです。見て見ぬ振りをしたい。
しかし、とる必要のない受身を、彼女は身を削ってひとつとってみせた。私はそこに、ライターとしての意地と、弱さをさらけ出すことで強くなろうとするありようを見た気がしました。

「最強レスラー数珠つなぎ」には、そんな「強くなりたい」書き手の姿が存分に投影されていたように思います。
プロレス関連の著作としては異色かもしれません。
書き手の一人称の語りが赤裸々に盛り込まれているからです。
これが週プロのインタビューだったら邪道だとか、客観的に書けと言われるかもしれないけれど、これはあくまでムギ子さんの著作であって、読み手はレスラーの語りを紡ぐ書き手のムギ子さんと対峙すればいい、あるいはムギ子さんの語りを通じてレスラーの語りに触れればいいわけです。
そもそも、新聞記事であれ小説であれ学術論文であれ、ものを書くって主観的な行為なんですけどね。我々はそこに説得力を与えるために客観性という概念を取り入れ“ようとしている”だけで……という話はさておき、テーマを立ててものを書くという行為には必ず、書くことに向かわせる能動的な動機があり、背景があり、すったもんだがあります。そのすべてをムギ子さんは隠そうとしませんでした。もの書きって、それでいいと私は思います。でも実は、さらけ出すことが一番難しくもあります。なぜなら、さらけ出すには、自分と向き合わなければならないからです。誰しも自分のことを知りたい。知りたいけれど、知りたいぶんだけ知りたくないものです。だからこそみんな主観性を排したがるのですが。
「最強レスラー数珠つなぎ」は、プロレスをテーマにした、ライター尾崎ムギ子の身を削った成長譚であるといえます。

いろんなレスラーのインタビューが載っていてその全部をぜひ読んでほしいのですが、やっぱり私は佐藤光留がこの本のキーパーソンになっていると思います。
「最強より最高」に噛み付いた佐藤光留が、次の最強レスラーとして指名したのが、鈴木みのるではなく、あえて「満場一致で“最高”の男」であるところの宮原健斗だったという盛大な謎かけ。
当時の宮原は、史上最年少で三冠ヘビー級王座を戴冠し、リング上で「最高」と叫び始めた頃でした。一方で、まだ「最強」とは思われていなかったようにも感じます。
その真意は、果たしてどこにあったのでしょう。

書籍版には、そんな佐藤光留の特別インタビューも掲載されています。強さを追い求めるレスラーたちの言葉に触れてきたムギ子さんがあらためて佐藤光留と対峙したとき、一体どんな「リマッチ」になるのか。
それはぜひ、購入してご確認ください。

そんなわけで、ムギ子さんを囲む会は、去る3月16日、DDTプロレスリングが経営する新宿歌舞伎町の「エビスコ酒場」で行われました。


もちろんムギ子さんとお会いするのは初めて。他の参加者さんも、大半ははじめましての方でした。
ムギ子さんはムギ子さんで、この日の主役でありながら連絡用の携帯が使えなくなるというズンドコぶりを発揮しながらも、出版に至るまでの話やプロレスの話などワイワイ語り合いつつ、当初2時間の予定が気づけば3時間4時間と延長するほど、楽しい会になりました。

ステキなイラストを描かれるブロガーの男マンさんから、自作の女子プロレスの解説書をいただいたりして(ありがとうございます!めっちゃカワイイ😊)。


ほんの一年二年で女子プロレスの風景もだいぶ変わるものだなぁと再認識するなど(笑)

会に参加し、本を読んで、あらためて考えます。
私は、なぜプロレスを観るのだろう。プロレスという非日常に、なにを求めているのだろう。

あのときムギ子さんの記事は炎上したけれども、私だってイケメンの男子レスラーやカワイイ女子レスラーを見てなにも感じないわけではないし、そういうところがプロレスの入口になることも多い。いい男に抱かれたいと思うファンもいるだろうし、そんなファンを抱きたがるレスラーもいる(よしなさい)。
けれど、プロレス観戦を続けていれば、決してそれだけでは終わらないのもまた確かです。
技や受身の美しさ、入退場の華やかさ、レスリングの攻防、戦略性、勝負論、興行論、観客論、幻想、サイコロジー、喜怒哀楽、強さ、巧さ、思想、そして生き様。
プロレスには、こんなにたくさん、楽しめる要素があります。
観れば観るほど面白い。それが、プロレスというプロフェッショナルスポーツ(あるいはプロフェッショナルエンターテインメント)です。

小橋さんの不屈の闘志と、天龍さんの格好よさに惚れたところから始まった私のプヲタ生活。
プロレスが、引きこもりだったクソみたいな私を勇気づけてくれました。
いろいろな考え方や感じ方があると思うけれど、私はやっぱり、なにがあっても跳ね返す強さを手に入れたくて、プロレスを観ているような気がします。
そのヒントが、プロレスにはいっぱい隠されているから。
強いレスラー、弱いレスラー、巧いレスラー、ずるいレスラー、不器用なレスラー、悪いレスラー、楽しいレスラー、いろいろいますが、すべてのレスラーが痛い思いをしてプロレスのリングに上がり、戦っているわけです。勝ったら強い、負けたら弱い。でも弱さをさらけ出せる人は強い。結局みんな強いんです。そんな一人一人の強さに私は触れたいと思う。そして、私も強くなりたいと思う。

強くなりたいという欲求が、今日も私をプロレスへと向かわせます。
そして、観たものを文字で表現したくなります。

やっぱりムギ子さんに親近感を覚えるなぁ……
またお話したい!
今回はありがとうございました😊
Twitterを眺めていたら、こんな記事に出会った。

プロレスラーのマイク・パロウがゲイとしてカミングアウト(石壁に百合の花咲く)

これは、「ゲイレスラー」ではなく、「ゲイであることに葛藤してきたレスラー」によるカミングアウトのお話。

全日本プロレスを観ているファンならすぐに気づくと思う。
先日まで行われていた世界最強タッグ決定リーグ戦に出場し、優勝こそならなかったもののパワフルなファイトで観客の度肝を抜いたタッグチーム「The End」の一人、パロウのことだ。

なんの気なしに見ていたレスラーのカミングアウトをあとで知って、セクシュアリティが目に見えないものであるということ、そして、だからこそ、特定のセクシュアリティを貶めるような言動を問題視することが間違っていないということを再認識した。

日本には、T(トランスジェンダー)であることをカミングアウトしてデビューした朱崇花選手(プロレスリングWAVE)がいるものの、LGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル)をカミングアウトしているプロレスラーはいない。いや、プロレスの世界だけでなく、日本の多くのプロスポーツの世界において、LGBTQは存在しないことになっている。
なぜか。
カミングアウトしたときに、守ってくれる人がいない(あるいはそう見なされている)からである。
「アメリカのヘイトクライムは過激だが日本ではそういう事件はない。日本ではLGBTのタレントがたくさん出てくる。だから日本は寛容だ」という主張は間違っている。ナンパしてきたくせにトランス女性だとわかった瞬間暴行を受けた人を私は知っている。そしてそれがヘイトクライムであるという認識すらされない。
画面を挟んだ「向こう側」の存在ならいいけれど、目の前に立たれたら困る。LGBTはLGBTだけの世界でコソコソ生きてくれ。
この排他性こそが、「美しい国」日本の現実である。

記事によれば、パロウもまた、テレビ画面の向こうから発信されるステレオタイプなゲイイメージのシャワーを浴び続けたことで、自らの性的指向についてネガティヴな感情をもつようになった(これを「内在化されたホモフォビア(同性愛嫌悪)」という)。ゲイであることが周りに知れたらと思うと気持ちが塞いだし、ゲイどうしとわかっていても排除されることがあったという。
しかし、フィアンセとの出会い、そして以前自身を助けてくれた人がオーランドのゲイクラブでの銃乱射事件で犠牲になったことをきっかけに、彼はついに自らがゲイであることを公にカミングアウトした。

「怖がっていないで人を助けろ」と、生前その人はパロウに言ったそうだ。

怖がっていないで、人を助けろ。

この言葉の意味を、私はもう少しゆっくり考えてみたい。

怖れを乗り越えて戦うパロウに、心から敬意を表したいと思う。