「知山知水」番組企画に澁谷村長が登場します。

 修験道の山の知恵を復興に!!にという企画は一般的にはわかりにくいかもしれないということもあり、チラシと主旨が要とずいぶん時間をかけてスタッフと詰めていました。そんな中、完成間近に澁谷村長にご相談する機会がありました。チラシと我々の企画主旨をじっくり聴いてくださったあと「これこそわたしがやりたいと考えていたことです」と即答いただきました。

 澁谷村長の話を伺っていると、今回の水害で最もよく被災地を歩いてきたという自負をもっておられました。確かによくご存知です。村長はトップリーダーとして被災直後から被災現場のど真ん中を歩き続けて、その悲惨な状況をつぶさに見てこられました。山のことも被災の前からイノシシやシカの獣害についても熱心で林野庁にも歯に絹着せぬ発言をしてこられていました。
 スギやヒノキ、広葉樹、雑木などのそれぞれの植生も役割も現場肌でとてもよく理解されていて説得力があります。木々の背丈や習性を考えて植える間隔、数十年先の成長後の生態、そのイメージ力やそのことによる防災、減災、水源涵養などへのビジョンもしっかりとお持ちでした。

 村長との打ち合わせは、材木や住宅資材を扱っておられる筑前町の地元企業アサモクの青年社長 多田さんと同行しましたが、多田社長もまた幼少の頃から会社の先代である祖父に山の見方、歩き方を叩き込まれてきた人です。二人の話は東峰村だけでなく朝倉市、日田市の環境保全を視野に入れた全体のバランスをよく考えた山づくり、森づくりの話に展開しました。わたしはこの時のお二人の語り合うその姿をそのまま1/27-28日のいぶき館スタジオで再現すれば良いのだと明確に番組の中身が見えました。

 この日は東峰テレビでネット中継の予定ですが、やはり現場での体温はテレビでは伝えられません。ぜひいぶき館スタジオに足を運んでもらって一緒に語り合っていただきたいと願っています。


 「知山知水」〜 修験者の山の知恵を復興に!!〜、という企画が生まれた背景をお伝えします。

 材木や住宅資材を扱っておられる筑前町の(株)アサモクの青年社長多田さんがある時に「5年前と同じようなことがまた東峰村、朝倉市で起きかねないので、東峰村で何かできないでしょうか」と相談がありました。「5年前の豪雨水害の時、筑前町の山持ちの方々が水害で崩れた山を手放した結果、益々木々の手入れがされない山が増えて危険性が増した。今回の水害で東峰村や朝倉市でまた山を手放す人が増えると、先々さらに危険性が増すので山のことや木のこと、水のことを一般の皆さんに知ってほしい」、ということでした。どういうわけか?役行者(えんのぎょうじゃ)の本をお持ちでした。本の内容を簡単に言うと役行者を代表する行者、修験者たちは環境を守るために植樹していた。それが行者杉に成長し、今の水源涵養や環境保全につながっている。・・という話です。

 わたしは東峰村に来た一つの理由に役行者や修験者の里に関心があったこともあり、その話を進めたいとおもい多田社長に即答しました。そして、この話を元に九州大学の三谷教授をチーフとする復興支援団の清野聡子准教授に話したところ、想定以上の反応がありました。生態工学専門の清野准教授は、人々、動物、植物をはじめ生命を育む工学、建設を創っていこうとされている方で、東峰村の復興にその発想を活かしていこうと、住民協議会で住民から出てくる話に深く耳を傾けておられました。

 清野准教授から、「被災直後から、普段使われていない古道が全く崩れてなくて国道211が寸断されていた間も地元住民はその古道を行ったり来たりしていた」との話があり、わたしも近くに住む窯元からその話を聞いていました。被災直後から全集落をお見舞いと取材を兼ねて歩いてきたわたしは住民協議会で出てくる話のほとんどの現場が映像で見えてました。記録映像があります。「それを今こそ活かしていく時だ」、と直観しました。

 このような経緯で多田社長、清野准教授、岸本の3人の目指す方向が一致し、形になったのが「知山知水」です。しかも住民の声を反映するためにも現場から出た話をできるだけ多角的にお伝えするために住民主体の本音トークを展開することにしました。多くの住民方々の出番を創っていきます。


 前回盆休みをいただいてふらっと☆Nipponを「八百万女」のみなさんにお任せしました。
(本当は「八百万人」と書きます:「やおよろずびと」と読みますが通称「はっぴゃくまんにん」)

 前回のNHK大河ドラマ追走番組は30回目。秀吉が死んで真田昌幸(草刈正雄)と出浦昌相(寺島進)がいよいよ真田の領地を奪還すべく勝負に出ます。「出番」が来ました。特に寺島進演じる出浦昌相はもともと忍者で国衆だったのですが草刈正雄(真田昌幸)に惚れ込んで配下に下り、支えていきます。ドラマでは草刈さんと寺島さんのあ・うんの呼吸で見事にドラマが進んでいきます。語らずともいざという時にはお互いがやるべきことをやる、2年前の軍師官兵衛の時も黒田の武将たちが岡田君を囲んで見事なチームワークを見せました。

 戦国時代はどこのクニ(地域)もチームワークとトップのリーダーシップが命でした。現代は??前回のんびりと盆休みを過ごし、1時間ほど前に前回のふらっとの番組をやっと全部見ましたらとても面白い!! 「出番」という追走番組のテーマがまさに出演してくれた熊本、長野、横浜の八百万女のみなさんが実践しているのがくっきりと見えました。熊本の澤さんがメイン司会することでその日の気温が地肌から感じられるように語られ、熊本の「地震のその後」がマスコミから遠ざかりつつも全体としてはほとんど進んでないことと確実に前に動いている人たちがいることがそのまま見えてきます。

 いつもニコニコしている西澤さんがやはりニコニコしながら長野が熊本に負けないほど暑いことを語る時ジワーッと伝わる長野の気温。地震の最中の中継番組にしばしば顔を出してくれていたのに一言も発する機会をこちらが提供できなかった横浜の用松さんが本当に地震のことを我が事として感じていることもひしひし伝わります。

 ・・・と、いうわけでふらっと☆Nipponはやっと八百万女の人たちによってマスコミ型の番組ではなく暮らしに根を張った住民の皆さんによる情報交流の場としてカタチが見えてきました。住民ディレクターという住民自身による地域生活の表現手法は21年目を迎えてやっと新しい住民のメディアとして花を咲かせる時を迎えたのを感じます。本日は13:50からです。

生中継 ⇒ http://www.ustream.tv/channel/tohotv  
とうほうTVホームページ http://www.tohotv.jp
 


 東峰村の観光を魅力的に発信するにあたって東峰テレビスタイルをコンセプトにしました。東峰テレビは地元に生まれ育った村民のみなさんと村外からやってきて住み着いた人、村外に出て故郷を懐かしむ人、村外から村を応援してくれる全国の応援者、東峰村ファンの人などが顔を合わせ、またはネット上でのやり取りを含めて交流しながら東峰村を活性化させようとする皆さんの気持ちが交わる場の一つです。

 その多くの人でつくるコミュニティの多様な視点を生かして東峰村物語を映像化しました。また、東峰テレビならではのスタイルとして1、ヒューマンドキュメンタリー風 2、企画ニュース風  3、デイリーニュース風 4、スタジオトーク風と4つのタッチで変化をつけて組み合わせられる工夫をしました。

 2010年の開局以来、地域番組作りと全国中継番組を両輪として情報発信を継続し、地元だけでなく全国の老若男女が集う新しい地域コミュニティである東峰テレビ自体が話題にもなってきました。取材に訪れるマスコミや大学研究機関、地域活性化に取り組む自治体視察団など村外の目でみればこの東峰テレビスタイルから東峰村を発信する試みは新しい観光を提案する上でも大変面白いとの意見をいっぱいいただいてきました。

 そこでこの発想をオムニバス方式で組み立ててテーマで切り分けた「個別の視点」とそれらを全部組み合わせ、村長や村出身者で福岡市在住のふるさと観光大使の視点で東峰村を一望する「全体の視点」を併せ持つ9本セットという観光プロモーションビデオを完成させました。これらを一挙上映することで東峰村の人、自然、文化、歴史などを時空を超えて凝縮して体感していただくライブハウス企画となりました。

*9本のオムニバスPVの一覧 


 



 ライブハウスで村祭りが実現したのはちょっとした勘違いからでした!!昨年から村の観光プロモーションビデオ制作に入ってましたがやっと完成し、当初から考えていた福岡市内での試写会の検討に入りました。できたら試写会だけでなくちょっといっぱいやりながら福岡市内のみなさんとの大交流会を目論んでいました。

 会場を探していたところ、中洲のど真ん中のゲイツビルにうってつけの店があると聞きました。そのうちの一人で今回のPVの一本目を制作してくれたフリーディレクターの森田監督からは「村祭りみたいな感じで行きましょうよ」との提案があり、役場の担当者からもゲイツビルの名前が出ました。何となくその名前は聞いたことがあったので「それは良さそう!!」とすぐに会場を見に行きました。

 行ってみると本格的なライブハウスでその日は休みだったのですが、たまたまオーナーが出てこられていて厚かましく中を見せていただきました。参加者には棚田米や村の野菜や特産品を味わってもらいたいと考えていたのでオーナーに相談したところ「今は村おこしは大事ですねー」と快諾いただき、ステージも夜神楽ライブに使わせていただくことにして村祭りの全体イメージが出来上がりました。

 で、会場が決まったところでビルのもう1階上の店など探索していたところ8階に広〜いスペースがあってスクリーンもある店を発見!!「あれ?ここが監督や担当者が話していた店かも??」・・、実際にそうでした、監督と担当者に聞いたところライブハウスのことは知りませんでした!!というわけで私の早とちりで階を間違えて訪ねて行ったのが結果的に「ライブハウスで村祭り」実現になりました。

 しかしこういう展開は面白いもので普通ならライブハウスで棚田米を炊いたり餅まき、大抽選会をやるなんて有り得ません。東京で長年ライブハウスを経営されて10年前に故郷九州に戻りライブハウスを始めたオーナーは田川の出身でした。結果的にはこの企画にとても協力的で逆にこの突然やってきた意外な企画を面白がってくださってるようです。定員70名、村人と博多のみなさんとの村祭りがどのような宴になるのか?大変楽しみです。

*東峰村祭in博多 FBページ


 NHK大河ドラマ「真田丸」第19回を見て大胆な「岸本仮説」を披露致します。信繁が「真田丸」という出城(砦)を築いて大阪の陣で戦った理由は、生涯密かに愛し続けた茶々(淀君)を守ろうとしたからではないか?と。最終回にてこの仮説の成り行きは如何に!!

 「恋路」のタイトルで放送された第19回の真田丸。とても興味深い日でした。信長の妹「お市の方」の娘で秀吉(小日向文世)とは因縁が深すぎるほどの存在で、またその秀吉がみっともないほど恋ごがれていくのが茶々(竹内結子)です。そして秀吉の馬廻りの役を仰せつけられて秀吉からは茶々の見守りを頼まれる信繁(堺雅人)、茶々の妖しい女性(にょしょう)の魔力に翻弄され度々秀吉の嫉妬を買い、身の危険が迫ります。一方でその妖しさにグイグイ惹かれていくようにみえます。そこをズバリと掴むのが「存在がうざい」と歴史好きの大河ファンからは総スカンを食っていたきり(長澤まさみ)です。頑なに「まったく関心がない」と言い張る信繁に「あれだけ美しい人だからちょっとは気になるでしょ?」とフェイントをかけられ「少しは」と本音をつぶやいてしまいます。「やっぱり!!」・・・といかにも女性(じょせい)らしい、しかも歴史ファンをがっかりさせた「現代の女性」らしい「男ってしょうがないなあー、結局それだもんね、チェッ!!」という感じの表情の演技は秀逸でした。

 さて、それで本論。三谷幸喜さん描く信繁はこの危うい関係で一歩間違えば明日は秀吉の気まぐれで死が待ち受けているかもしれない状況にありながら、やはり妖しい茶々の女性(にょしょう)の魅力に惹きこまれていきます。堺雅人さん演じる信繁はまだ20歳ぐらい、甘くも悲しく、また苦しい身の置き所が混沌とした禁断の恋への戸惑いと悩みのど真ん中にある存在を堺さんが見事に演じています。そしてこの先を想像するのです。

 真田丸は大坂冬の陣で豊臣方(茶々は淀君となり秀吉の息子と言われる秀頼を大将とする豊臣勢のトップに君臨)を守るために徳川方を迎え撃つ為の大阪城の出城(砦)のことですが、この真田丸を築き、最後は夏の陣で壮絶に戦死する真田信繁。大坂の陣に向かうまでは関ヶ原の戦いで西軍として敗れ10数年の幽閉の歳月を過ごしました。そして豊臣家のために大坂の陣に馳せ参じるわけですが、その理由は??

 真田丸を追走することにした当初からのわたしの疑問です。

 特にドラマのタイトルになるわけですから真田丸に込められた作家三谷幸喜さんの意図は?今回、茶々が言います。「赤い糸によって結ばれている二人は同じ時に死ぬ」と。これは茶々の愛の告白だったでしょう。深い意味が込められた・・・。そして秀吉に嫁ぐことを決めたのは「信繁を秀吉から守るため」でしょう。これまで代々の馬廻りは結局茶々に惚れてしまい、翻弄され、その結果秀吉の嫉妬を呼び起こし、ついには清正によって殺害されるという運命の職です。信繁もまたその道を歩んでいきそうになっていました。が、遊びではなく「本気で惚れてしまった茶々」は信繁を助けることを決意します。それが秀吉の側室になることでした。「秀吉に可愛がられている間は自分が信繁の命を救える」・・茶々はそう考えたとおもいます。

 一方の信繁はそういう女心には考えも及ばぬ若造だったでしょうが、茶々を激しく慕う心は命の危険が迫っても何ら変わりはありません。そして秀吉に仕えることは茶々に仕えることにもなります。茶々を慕うあまり受けざるを得ない残酷な秀吉への嫉妬心を一生抱え込んだままで・・・。そして、秀吉が死に・・・、徳川が強引に豊臣を滅ぼそうと大阪城陥落を目指す中、幽閉されていた信繁は人生最後の戦いを挑みます。愛する茶々(淀君)を守るため。これが真田丸築城の理由ではなかったか?と、三谷幸喜さんが想像したとしたら・・。

 第19回の「恋路」は恋に向かう路(みち)という意味が込められ路の先に「関白秀吉の側室」という道と「真田丸築城」という道があった。愛とサバイバルの物語と書かれた大河ドラマ「真田丸」の制作「意図」という縦軸となる「糸」をこの茶々と信繁の「赤い糸」に読み取りました。

 最終回に向けてNHK大河ドラマ追走は益々愉しみになりました。 

*Facebookページ 真田丸で國創り 
*Facebook 岸本晃 



 地場の工務店だからこそできる本当の地域住民密着の仕事の仕方があります。祖父の代から、またはもっと前から地元で大工さんをしていた地場の工務店は今、祖父の時代に建てた家の改築、または建て替えになるところが多いようです。建て替えはわかりやすいですが、改築ではなかなかきちんとした費用を取らずに慈善活動をされてるような工務店さんが多いです。

 やはり地域でずっと長いお付き合いをしてきたからでしょう。そして半端なことでは納得できず損をしてしまってもお客さんに満足してもらえるようにと誇りをもって仕事をされています。わたしなんか聞いてるとちょっとそれはやりすぎでしょう!!という話が多く、驚いてしまいますが今回の工務店プロジェクトの7人の皆さんは声をそろえて「家づくりは一生のお付き合い」と言われます。

 しかもみなさん口下手な方が多く、ついつい何でも引き受けてしまう方ばかりです。そしてこの魅力的な工務店グループをまとめて裏方で支えるプロデューサーが住宅資材総合センターアサモクさんです。住宅資材は工務店さんが活躍されることで自然と活気を呈していくのでその繋がりを大事に育てられています。まさに木を植えて育てるようにじっくりと取り組んでおられます。本当に頭が下がります。

 日本の経済成長はこのような地域経済を壊して効率だけで走ってきたから成り立ったものです、今、やっと都会でも気付き始めた時、地方は消滅の危機を迎えました。東峰テレビはアサモク感謝祭のど真ん中にステージと放送局を開局させていただきこのみなさんの裏方でしっかりと応援します。これがアサモクTVです。

アサモクTV 


 「ITで開拓!人、大地。」を理念に全国の住民ディレクターをネットワークしてきた一般社団法人 八百万人(やおよろずびと:通称はっぴゃくまんにん)はすっかり変わってしまった新しい時代にマッチした実践者の集まりとして生まれ変わるために今年度でこれまでの会員制を廃止します。

 日本最長寿の住民制作番組「使えるTV」のケーブルテレビ放送の終了に続いて人のネットワークも新たに紡ぎ直しです。ITはすでにICTという表現が馴染んできたようにコミュニケーションのないところに生きた活用策は生まれません。また人のネットワークも依存関係では何も生まれず主体的に行動する人の集まりこそ先を拓きます。他人のふんどしにぶら下がる生き方はわたしが20年前に提唱し実践してきた「住民ディレクター」ではありません。

 自分で考え、判断、決断し、日常の中で自分自身を磨き、自分自身の力で課題に取り組み解決していく人たちを求めます。このような「住民ディレクター」の生き方が消滅の危機にある地域を何とかしていく力になると考え、20年前にテレビ局を退職し、自分からはじめた生き方です。「住民ディレクターという生き方をお伝えしています。」とは20年間一貫してやってきたことです。

 時代はまさに住民ディレクターの時代に入りました。この時代の到来を予感し平成8年におそらく20年はかかると先を読んでひたすら人を求めて全国を歩いてきました。今、新しい一歩を歩みだすに当たってこれまでの20年間は珠算でいうと「ご破算に願いまして」といきます。毎日がゼロスタートですが、大きく20年ぶりのゼロスタートです。よろしくお願いいたします。


 平成8年の4月に全国に先駆けて熊本のケーブルテレビではじめた住民制作番組「使えるTV」をこの3/31で一度休止することにしました。住民が企画し制作する住民番組としては20年間続けた全国最長寿番組でしたがこの間にケーブルテレビはKCNくまもとからJCNくまもと、J:comくまもとと変わりました。

 そして「使えるTV」の制作主体は任意団体「まち創り応援団ぷりずむ」から有限会社プリズム、そして株式会社プリズムと制作・著作を引き継ぎ、2000年以降は制作協力としてNPO法人くまもと未来が現場を担ってきました。しかしこれはあくまで熊本市のケーブルテレビから脱するということであって「使えるTV」がなくなるわけではありません。

 平成8年4月から今も続く番組理念「住民の住民による住民のためのテレビ」を新しい時代に合った形で継続していきます。もしかしたら名前は替えるかもしれませんが番組理念は変わりません。元来わたしが熊本県民テレビを或る日突然退職して実質的には翌日からスタートした「使えるTV」は一人ではじめたものでした。

 初期は2時間番組を一人で使っていた番組です。あれから20年、時代はスマホに代表される映像文化の興隆でネットを活用すれば「テレビ」は誰でも使える時代になっています。しかし、わたしが20年前に考えていた「暮らしを豊かにするためにテレビを日常道具のように使う」という意味ではまだまだ「使えるTV」という存在は福岡県東峰村のケーブルテレビ東峰テレビで実現しているだけです。しかし、モデルはできました。

 平成8年に親しい人たちには「これは20年かかる大事業」と語っていたようにまさに20年かかったのです。シャープのザウルスという電子手帳が「将来は電話はもちろん、山の中から中継ができたり、絵を描いたり、編集できたり、あらゆる表現活動ができる道具になる。」と予言しました。つまりまさに今のスマホみたいになると予測したこともズバリ当たりました。

 道具が整い、同時に住民ディレクターが全国に行き渡り、地域活性化というテーマが普通になるのに20年かかると読んでいたのです。当時一緒に動いていた人には常々そう言ってたので少ないながらも何人かはそのことを覚えていました。新しい時代に突入したので「使えるTV」も全く新しいものになっていきます。正直言ってやっと準備の20年を終えたところです。わたしの本格的な社会事業はやっとこれからはじまります。

*写真は2008年、京都のあるお寺で。


 住民ディレクターの発想とこの手法でやろうとしていることが今回の第45回スタッフ会議でかなりはっきりとしてきました。わたしが住民ディレクターNewsの第1回で民俗学者 宮本常一と日本テレビの生みの親、正力松太郎のお二人を合わせ持った手法が住民ディレクターであることを書きましたが、今まさにこのことが「見える化」してきました。

 集落、村落共同体を壊していったのは他ならぬ昭和20年代後半に誕生したテレビでした。テレビが「東京」、「アメリカ」の生活が豊かだと発信し続け、憧れた田舎の若者を奪っていった結果が現在の少子高齢化の大きな要因です。テレビは遠くを見る眼鏡「遠眼鏡」でした。多くの人は遠くの世界を憧れ、田舎を離れ都市に集中し、海外にばかり目が向きました。遂には宇宙にまで遠眼鏡は世界を広げていって田舎には人はいなくなっていきました。そうして田舎がじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの三ちゃん農業化していき行き着いた先が現在です。

 さて、住民ディレクターは遠くばかり眺めて田舎から人を奪っていった元凶の?テレビカメラを使ってすぐ自分たちの足元を見つめる作業を始めたものです。すると足元に素晴らしい地域の素材や文化、習慣があることがとても良く見えてきました。各地の日本人が昔から伝統的に受け継いできた祭りは氏神さまを大事に守り、自然に感謝し、五穀豊穣を祈ってきました。その何気ない欲のない生き方こそが日本を支えてきた生き方だということを宮本常一は生まれ故郷の山口県大島を起点に全国行脚して確認していき、膨大な著書と写真を残しました。しかしこれは一人の巨人の業績でした。

 住民ディレクターは草莽崛起(そうもうくっき)、草の根活動で一人一人が「宮本常一」のように身近な環境に目をやりビデオカメラやスマホで写真だけではなく動画でも地域の暮らしを映し出し、一人一人の視点で表現していきます。しかも正力松太郎が生んだテレビの派手な部分も同時に持ち、住民のテレビとして全国、世界へ発信し続けてきました。

 身近な何気ない暮らしを見つめた「宮本常一」とマスコミと言われる全国の視点で次々と流行を生み出す「正力松太郎」の二つの巨人の要素を草の根で全国ネットワークによって創造していく新しい文化運動が今、あさくら広域で全国に先駆けて起こっていることでしょう。この動きをダイナミックに伝えていくことが地域活性化(地方創生)の大きな要になると考え、20年前に熊本の片隅からスタートした「住民ディレクター」という地域おこし運動でした。

 会議の終了5分前にこの話をさせていただきましたが、それは前半に篠崎さんがまさに朝倉の「宮本常一」である田中富美男さんという方が残された昭和30年代の写真を紹介してくださったことにはじまり、この日秋月小学校の子供達の住民ディレクター授業を提案してくださった皆さん、いやなが集落の村おこし、筑前の食の動きなど全部の企画に「宮本常一」的視点がぎっしりと詰まっていたのです。そしてわたしには昭和30年頃から今現在の約60年の日本の歴史が篠崎邸の住民ディレクター企画会議の席から走馬灯のようにくっきりと見えました。

*地域おこし協力隊募集!!2/5(金)締め切り 

*東峰テレビのとうほうTV

*地方創生番組「ふらっと!!あさくら」第45回企画会議   

*宮本常一と正力松太郎