ヨルダンで迎えた54歳、今回の目的は住民ディレクターではないが、荒野を目指す大先輩や、近しいお仲間との活動なので自分自身を見つめなおすとてもいい機会をいただいている。そもそも住民ディレクターという発想も自分自身を内省することから始まった。映像は視覚的、即物的なメディアだが、これを触ってつくる側ににいると、とても内面的で創造的な作業だ。いつも話しているが、たまたまテレビ局に入ることになって嫌で嫌で仕方がなかった映像制作がいつしか面白くなってっきたのは、好きなことに行き当たってからだ。
 当初は事件事故のニュースや、慌しい番組づくりの現場の両方同時にやっていたので、毎日毎日が自分を見失う日々だった。深夜まで飲みまくり、熊本の夜の街で大騒ぎの日々がかなり続いた。感受性が錆びついていくのが自覚できぬまま、とにかく鵜飼いの鵜のようにポケベルをもたされ、首根っこをつかまれていたような毎日だった。
 一方で、カメラをのぞいたり、編集の面白みがわかってき始めた頃、自分は一体本当は何を撮りたいんだろう?何を発信したいんだろうと考え始めた。これがわかりやすいのは、ハードなスケジュールをこなしている間は、「これが終わったら俺は本当に好きなことをやるんだ」といつも考えている。ところが大忙しが終わって、少しゆとりができたら、しばらく休んでからやり始めようということでいつまでもダラダラしていると次々と仕事が重なってくる。また慌てて忙しい日程をこなす。「終わったら今度こそ・・・」と思うが結局、小学校の夏休みの最後の日と同じことを延々と繰り返している。「今度の時は・・・」このからくりを自覚するのに随分時間がかかったが、気づきの転機は田舎周りだった。
 ここからはいつも話すことなので省略するが、カメラがいい出会いのチャンスとなり、放送が新しい関係のスタートとなり、テレビ局という「場」がダイナミックな交流の場となっていった。自覚してからはとにかくひたすらこのテレビ局というのを社会のために使うにはどうすればいいのか、を考え続け、考えたことを実戦し続け、結果を出し、さらに日本テレビをはじめに全国行脚を始めた。そして全国各地の地域状況が見えてくる。
 あれから約20年・・・、テレビ局を退職し、住民ディレクター活動をやってきた。局にいたときに自らが経験した自己発見、学習、コミュニケーション、大交流、発信、反応、継続する関係、ビジネスなどなど・・・、多くの要素をもつこのテレビ局機能が総合プロデューサーを目指す「住民ディレクター」になっていった。しつこくやってきたおかげで、一応それなりに知られて波及していった。いつもモデルは山江村の松本さんだったという話をするが、勿論、そのまえに自分自身の模索があった。自分自身を見つけるプロセスがあったので、「番組作りのプロセスが企画力を養成する」となった。企画力は何かを成し遂げようとする時の全プロセスにかかわる基本的な想像力と創造力のことを言ってきた。
 54歳、幸い体力も精神力も充実してきた、世の中もお金第1主義からやっと抜け出さざるを得ない状況に来た。やっと出番かもしれないとヨルダンの身体の芯にまで届くような日差しを受け、感じている。