刑務所でシラミだらけのベッドに横たわりながら天井を見つめていると、惨めな過去が走馬灯のようによみがえってきます。
先月還暦をむかえた私は、昭和38年5月、佐賀県佐賀市の西田代というところで長男として生まれました。ここから車で10分位の場所です。
父はタクシーの運転手、母は専業主婦でした。
母にとっては初めての出産で、それはそれは喜んだそうです。父や祖父母たちも可愛がられ、幸せな日々を送っていたのです。
父は博打と女が大好きで、浮気のたびに姿を消しました。
私が2歳の時弟が生まれたましが、その後間もなく、父の浮気が原因で両親は離婚しました。母が出稼ぎに行くために、私は母方の祖父母の所へ、弟は他の家庭へ養子に出されました。
両親の離婚により、弟はよそのうちに、私は母方の祖父母に引き取られました。
祖父母のうちは、とても質素な生活でした。明治生まれで太平洋戦争を経験している祖父母は清貧を美徳とする夫婦だったのです。
終戦後、家具などを作る さしもの大工をしていた祖父は祖母と結婚し、熊本から厳木の新屋敷炭鉱の社宅に引っ越しました。
二人には子供ができなかったため、唐津にあるタバコ農家の娘、私の母を養女にむかえます。
炭鉱の閉山によって職を奪われた祖父母夫婦は、佐賀の「朝日生命」という生命保険会社に管理人として住みこみで働くようになりました。
今はもうありませんが、ホテルニューオータニの近くにありました。
住まいは殺風景な管理人室でした。家具も食器棚とタンスと小さなテレビくらいしかありません。
私は養子に出された祖父母のもとから幼稚園に通うようになりました。
ばあちゃんに、いつも「母ちゃんは、いつ帰ってくるの?」と聞いていました。
聞くたびに「大人になったらわかる」としかいわれませんでした。
私が小学校3年生の時に祖父が亡くなりました。
私は祖父が死んだ悲しみよりも、ひそかな期待をいだいていました。もしかしたら母のもとに帰れるんじゃないかと!?
母は祖父の死の知らせを受けて帰ってきました。
「ああ、やっと母ちゃんに会える。満面の笑顔で抱きしめてもらえる」
私はそう思いました。
しかし母は想像にもしない言葉を口にしました。「自分で決めなさい」母は冷たくそう言い放ちます。
保険会社の管理人室の狭い部屋で、じいちゃんの祭壇の前で母は私に聞きました。
「このままばあちゃんと生活していくのか? 私のもとにくるのか? 自分で決めなさい」
正直、私は母ちゃんについていきたかった。けれども悲しみに暮れるばあちゃんをひとりにすることはできない。どうすればいいんだろう?
私は子供のころからいつもまわりの人の顔色ばかりうかがって、他人の人生を選んでいました。
結局、自分の意に反して祖母と生活することを選んでしまったのです。
両親がいない私は子供のころから寂しい思いをしました。
近所の子供と遊んでいて夕方になり、ひとりふたりおうちに帰っていく姿を見るのが怖かった。
空を見上げると鉛を飲み込んだような気持ちになりました。
そして、私を捨てた母をずっとうらんでいました。
3、おさない瞳
1
もうパパとママはいっしょに住めない
だからあなたも自分で選んで
たった5歳のあなたにはとても残酷な選択
だけどこうするより しかたなかった
ママが荷物をまとめるとなりで
ひとりむじゃきにはしゃいだあなたを
ふいに抱きしめたくなって 伸ばす腕を押しとどめた
だけどこうするより しかたなかった
桜吹雪舞うなかを あなたが遠くなっていくから
さよなら さよなら ちいさな手のひら
世界でいちばん愛しい命よ
さよなら さよなら おさない瞳よ
それでもわたしを 許してくれますか
2
けっしてあなたを忘れたことはない
だってはなれていたって感じる
今日はなにして遊んでる 給食は残さず食べたかな
だけどこうするより しかたなかった
いつもあなたの瞳が見ている
そしてわたしの瞳も見ている
だからなんにも恐れずに あなたらしく生きればいい
だけどこうするより しかたなかった
たとえこの世を去ってでも ずっとあなたのそばにいるよ
さよなら さよなら ちいさな手のひら 世界でいちばん愛しい命よ
さよなら さよなら おさない瞳よ
それでもわたしを許してくれますか