「世界がもし100人の村だったら」という動画サイトがある。
この内容は一時チェーンメール化したこともあり、さまざまな意見が飛び交っていた。
世界的な視野で自分の位置を把握できるし、このような情報をパソコンを通じて受け取れる1%に属しているのを知ることができる。
おそらく「世界がもし100人の村だったら」を広めた人たちは、善意で行動したと思う。テレビでは報道されない世界の現状をみんなに知ってもらいたくて、世界でももっとも裕福な国のひとつ日本に住むということの意味を問いかけたかったのだと思う。
マキちゃんは「また、思い出せて良かった。私は、とっても幸せ者だって事に」と書いている。
これはすばらしいことだ。この情報によりガンと闘うマキちゃんに勇気と気づきを与える。
情報というのは「素材」もしくは「道具」であって、ポジティブにもネガティブにもつかうことができる。使い手の人格や状況によって生かすことも殺すこともできる。
「世界がもし100人の村だったら」に批判的な意見では、「情報操作」や「洗脳」だと声を荒げる人たちがいる。しかし彼らはなぜこの情報が自分の感情を逆撫でするのかわかっていない。
同じように善意の人々も気づいてなかった落とし穴がある。
ここからはあくまでオレの独断と偏見による意見だ。
たとえば君が街ですれちがった身体障害者を見て、「ああ、わたしは五体満足で幸せだ」と思う。
5分後、テレビで芸能人を見て「ああ、わたしはブサイクで不幸せだ」と思う。
これが「比べること」の落とし穴である。
「比べること」はプラスもマイナスもいっしょなんだ。
「比べること」によって得られる幸福は永続しない。
「比べること」をやめたとき、
君は、
常識や道徳の呪縛から逃れ、
過去や未来の鎖を解き放ち、
誰とも取り替えることができない、
何度生まれ変わっても同じ自分にはなれない、
どんなにブサイクでも、
どんなに無力でも、
どんなに落ちこんでいても、
今の自分が世界で唯一無二の存在だと気づくだろう。
その気づきこそが永遠の「幸福」をもたらす。
「比べること」をやめたとき、君は「幸福」そのものになるんだ。
ああ、また天の邪鬼なこと言っちゃったな。
「世界がもし100人の村だったら」村で、オレは絞首刑になるだろう。