俗族 | New 天の邪鬼日記

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小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。

 日光の正月は初詣ラッシュである。
 東照宮まで何キロも初詣渋滞がつづく風景を子どものころから見てきた。東照宮ができる500年まえも修験道たちが集まってきてたし、縄文の巨石たちが裏日光にあるので、何千年も前からこの聖地の特殊な磁場に惹きつけられて人々がやってきたのだろう。
 裏日光の静謐さとは対照的に表である東照宮、輪王寺、二荒神社は、デパートのバーゲンセールさながらだ。おみくじや福を呼ぶ神様グッズが飛ぶように売れている。
 列をなした人々が本殿の前で手を合わせ、それぞれの幸福を願っている。
 金運、健康、合格、就職、出世などなど、俗界の祈りは具体的だ。
 なかには世界平和や宇宙の調和とかってゆう人もいるだろうが、それもどうだかなあ。なんかウソくさいし、そういう人に限って夫婦仲が悪かったり、自分のことがうまくいかないんで現実逃避に祈りを使ったりする。
 ラコタ族の祈りで「ミタクオヤシン」という言葉があるが、「私とつながるすべてのものに」感謝を捧げ、他者に祈るというものだ。
 ダライラマも「他者のために祈れ」と言っている。
 さらにそれを一歩進めて、「なにも願わない手を合わせる」(藤原新也)という境地もある。
 たしかに「祈り」と「願い」はもともと別物である。
 「祈り」というのは、「なにか大いなる存在(Something great)」を畏れ敬い謙虚に振る舞うことだ。
 「願い」は、個人にしろ他者にしろこうなってほしいという未来の願望だ。
 「祈り」と「願い」をいっしょくたにして、神様に金運や出世をたのむのは虫がよすぎるだろうし、それほど神はひまじゃないし、善人でもない。
 こういうときだけお賽銭を奮発しても社寺仏閣という大企業のボーナスにまわされ、凍死するパキスタンやアフガンの子どもたちには1円も届かない。
 駄菓子菓子(だがしかし)、「祈り」と「願い」を焼きそばパンのように合体させた俗人の祈りはまったく無意味なのか?
 俗人の鎌足じゃない、塊魂であるオレはこう考える。
 「困ったときの神頼み」というソバめしのような俗人の祈りは、想念を形にする一種の合理的なイメージトレーニングだ。願いを具体的な言霊に変え、神様を利用して権威づけすることにより、プラシーボ効果が生まれる。
 じっさい効果がなければ、ローマ教皇のパスタに始皇帝の具をのせた名古屋名物あんかけスパゲッティーのような一口で二度おいしい(長い喩えだな)祈り方は消えていったはずだ。
 世界平和やなにも願わないで手を合わせるのもかっこいいが、私利私欲てんこ盛りで祈る俗人の生命力こそが人類滅亡を生きのびさせてきたのかもしれないのである。

 おお、神よ、
 われわれ俗族が永遠にぞくぞくしますように、
 平穏無事の罠から守りたまえ。