相変わらず安上がり
三重スパイ
ヌーベルバーグ世代の主張の一つに"無駄金を使わない制作スタイル"ってのがあった。少数精鋭でミニマルな現場。確かに初期のゴダールやトリュフォーの作品は、それを実証している。というか映画はホンだから当然といえば当然。何億ドルもかけた大作よりも製作費5000円の『ある朝スウプは』の方が圧倒的に面白かったりもする。ただやはり低予算は基本的に弱点が多い。スタッフの数が少なければ大規模な人止めはできずロケはゲリラが多くなる。それどころか歴史モノをやるにしても大規模なセットは組めない。その弱さがモノに出る事が多いのがロメール作品。いくら映画はホンだとはいえ不自然なまでに小規模なシーンが続くのだ。その弱さがモロに出るのが歴史モノ。当然グリフィスのようなセットは期待できない。確かに過去を舞台にしたロメール作品でも『O侯爵夫人』のように大昔なら不自然さを感じさせない作品はある訳だが今回は第二次大戦前夜という事でやはり大規模は難しい。フランス在住の反ナチのロシア人スパイの物語なのだが、描かれるのは彼のプライベートの方ばかり。あえてそうしているのだろうが、もし任務の方を描けと言われたらこうはいかないだろう。
左派が集まるアパートの一室。隣人には政府関係の仕事をする男。互いを警戒し合う関係。国の上層部の人間という事は必然的に右派だから。だが彼は自分の事や政治を語ろうとしない。妻にまで仕事の詳細は隠している。なぜなら彼は諜報員だから。左派のように理想論を並べ立てたりせず黙々と実直に仕事をこなすだけ。ピカソの素晴らしさを説く左翼に彼の絵は分からないから嫌いだと堂々と言い放つ。いわゆる流行モノを分かりもせずに褒め称える無責任人間ではない。キュビズムの理屈が分かった所で、それは理解するのとは別。絵の思考を理解するには、そのレベルに近い思考が必要。「ああではなくこうなのだ」の"ああ"すらも描けない人間には、その思考の発見に驚く事すらできない。それが絵画という物。彼の妻は趣味で絵を描いているが、あくまで写実。肖像画や人間がいる情景。これらの絵は画面を華やかに彩る。それはまるで低予算故に室内シーンばかりが続く絵のキツさを緩和するかのようだ。