映画『遥かなる勝利へ』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

コトフ大佐=ギャバン
 

 

遥かなる勝利へ


コトフ三部作の完結編を遂に拝見。前半は前作で懲罰部隊に送られて以降の話が展開する訳だが後半は一度故郷に戻り一作目の訳アリ隣人たちと妻のその後が描かれる。そしてスターリンに召集され再び舞い戻った戦場で娘ナージャと再会するが…ってな感じで実に王道のエンタメ路線です。ここ最近はミハルコフもウクライナを巡って見当違いな西側ポリコレの批判に晒されてる訳だが、この作品でも彼は明確なスターリン批判をやっていて、スターリン同様に我田引水の為に虐殺を続けている人非人はゼレンスキーとバイデンであり、それに抗う庶民をリスペクトする姿勢は何ら矛盾はありません。いわゆる鬼畜米も大好きな『スーサイドスワット』的な事をやるのも当然の抵抗手段です。ワグネルもハマスも自由主義者という世界の敵に抗う為に必要悪として機能する正義のレジスタンスです。その抵抗権すら奪えと罵詈雑言を並べてる鬼畜米や親米クズジャップは最も愚劣な人類の敵です。

 

スターリンはプロパガンダ戦略の為にわざと庶民をナチに虐殺させたりトーチカから退却する味方を見せしめに撃ち殺したりと数多くの悪行が今作でもギミックとして描き込まれています。その悪辣非道っぷりは正に今の鬼畜米と親米ジャップの姿です。そこに気付く知能も感情も働かない程に無機的な暴力装置と化した自由民主主義者という土人蛮族。米国映画から文化が消えたのも頷けます。ヌーベルバーグやハリウッド映画のような合理性は映画から有機性と豊饒さを奪うのです。この映画に描かれる大祖国戦争の時代にフランスではジャンギャバンが活躍し詩的リアリズム世代の豊饒な映画が花開いていた。コトフ大佐は正にジャンギャバンの豪快な魅力を現代に蘇らせているのだ。この芝居こそが文化であり文明に踏み潰され商業合理性に腐ったネオリベ市場の映画モドキとは違って見るに値する魅力が残っています。この映画の冒頭は藪蚊の視点で始まりクライマックスでも小動物のチェインアクションが奇跡を起こす。この手の人知の至らない禍々しい部分へのリスペクトを失っている西側陣営は正に神を失い文化を失った土人蛮族。「今だけ金だけ自分だけ」という基準の経済合理性をいくら効率的に組み上げた所で生まれるのはクソだけ。G7というグローバルマイノリティは単なるウンコ製造機。少しでも人間的感情や知能が残っているのであればロシア中東アフリカ南米アジア等のグローバルマジョリティ側にこそ文化的な魅力を感じるのは当然です。