Cogito, ergo sum | アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

時代錯誤な私は実存主義的認識を未だに重視して物事を考えます。その手の主観的な感覚を持つ作家は昔からイングマールベルイマンやカールドライヤーをはじめとして多くの優れた映画人に多く未だにその影響は感覚的に優れた表現を生み続けているからです。そんな主観哲学の系列として社会の外側をラジカルに表現する作家として若い頃は特にオーストラリアのピーターウィアーという監督に注目していました。この作家の作品は常に前提となる社会のプラットフォームを疑い、その前提に時に騙され時に問い返し時にその外へと出ようとする人々の姿を描き続けていました。

 

ただウィアー作品はハリウッドデビューして以降も地味な作品が多いのでヒットには恵まれず、ここ10年ほど活躍の機会を得られていません。その作品は普遍的な示唆に富んでいて常に哲学的な問いを投げかけます。だからこそ単純明快を求める米国では受け入れられ難い訳ですが、プラットフォームビジネスに生活が侵食され社会が傾いた今だからこそ、これらの作品は考え方の転換を促すヒントになるという意味では大いに作品としての価値があります。ってな訳で改めてここで時系列に彼が訴えていたテーマをまとめてみようと思います。

 

 

オーストラリア時代はホラー路線を中心に撮っていました。

 

ホームズデール(1971)

「主催者は参加者を操れる」

ごく普通の青年が気の弱さに付け込まれてパーティ主催者の命令で殺人鬼にさせられる話。正に割に合わない条件を伴うパーティの参加権。悪意ある歪んだ青春ドラマですが、今見ると主催者に選択権を委ねる前にリスクとメリットを計算すべきという示唆にも思えます。

 

 

ピクニックatハンギング・ロック(1975)

「自然は人間の理解力の外側にある」

実際の少女失踪事件を元にしたノンフィクションであり彼の出世作でもあります。この事件の謎は未だに迷宮入り案件で映画内でもミステリー解決はありません。ただ人知を超えた神隠しという現象だけがそこにあり科学的エビデンスもない。この手の失踪事件は往々にして近隣集落の利害関係による人災の場合が多いが、それすらもない事が、むしろ人間社会の理解の範疇の狭さを物語っています。

 

 

誓い(1981)

「共同幻想は生まれる前からそこにある」

マッドマックスで有名になったメル・ギブソンと組んで第一次世界大戦を描いた戦争モノ。オーストラリアの志願兵がオスマン帝国末期のガリポリに派遣されて戦う訳ですが、信じ込んていた大義とは、あまりに違う現実に落胆するというタイプの内容です。これは空気のようにして漠然と共通認識となっている正しさが間違いである事の示唆です。

 

 

危険な年(1982)

「イデオロギーはまやかし」

再びメルギブソンと組んでインドネシアのスカルノ政権末期の動乱を描き込んだ社会派。混沌としたインドシナ半島に秩序をもたらした英雄というクラスタ内の認識と、その変貌を部外者ジャーナリストの視座から描くというポリティカルサスペンス路線。一般的に「独裁政権は言論弾圧で庶民を黙らせる」という妄想が西側には蔓延っていますが、むしろ独裁政権の多くは庶民の意志を民主的に反映させた代理人なのです。

 

 

その後、渡米してハリソンフォードと組んだ2本が話題になりました。

 

刑事ジョン・ブック 目撃者(1985)

「アーミッシュはアメリカ帝国への抵抗」

ハリソン・フォード×ダニーグ・ロバーツというスター共演で知られる彼の代表作。警察組織の腐敗に気付いた刑事が証人の少年を庇う為に地方の集落に潜伏するサスペンス。この映画で"アーミッシュ“という自給自足の生活を行っている宗派が有名になりました。それは当時オーガニック系の自然趣向と混同されましたが実際はもっと政治的な意味があります。米国内の秩序は連邦中央が発する自由民主主義のイデオロギーではなく、むしろそれと対峙する州ごとの地方自治であったり、キリスト教的な道徳観・倫理観によって保たれています。だから自治体や宗派によっては中央連邦を徹底的に疑うという姿勢の所も少なくありません。集落外の市場原理は集落内の生活を脅かす懸念があるので頑なに自給自足を続ける。正に今、その懸念は新自由主義による資本社会の自滅という形で実現しつつあります。

 

 

モスキート・コースト(1986)

「文明の外側で生きようとする傲慢」

ハリソン・フォード×リバー・フェニックスという2世代共演で知られる問題作。発明家が個人的信念から文明から離脱した生活を試みた結果、一家離散してしまうという皮肉。未開地に浄水器というテクノロジーを持ち込む事で生きられるという技術信仰の間違い。それは傲慢過ぎる原住民への侵略という米国の間違いを繰り返す行為に過ぎない。いかに自分の家族や原住民と折り合いをつけるかという所の方が技術よりも大切。テクノマニアックを危惧する本人が最もテクノマニアックに染まっていたという一例です。

 

 

いまを生きる(1989)

「視野を変えましょう」

今は亡き良い人キャラの代表格ロビン・ウィリアムズが教師として若い世代に問いかける名作。お行儀よく型にはめる教育の中で、それでは主体性が育たないからと型を壊す事を教える。机の上に立つという行為は行儀が悪く大人たちから見れば反抗的な態度として嫌われる。だが、そこに立ってみないと見えない景色があり社会の外側への視野が獲得できないと気付けます。

 

 

フィアレス/恐怖の向こう側(1993)

「野生感覚を失った現代病」

いわゆる高層マンションブームで"高所平気症“が流行った当時の風潮にハマった作品。実際の飛行機事故が起こした2つのPTSD。それは恐怖の継続と恐怖の消失。自然界の原則では恐怖は大切な防衛機能であり消失してしまうと致命的な訳だが現代社会では恐怖が継続するより恐怖を消失してしまった方が生き易いという皮肉。

 

 

トゥルーマン・ショー(1998)

「すべては虚構である」

ジム・キャリーと組んでトンデモ設定で驚かせてくれた話題作。「もし自分の生活の全てがTVショーのドッキリ企画だったら?」という問いかけだが、これはデカルトに始まる主観哲学で繰り返し問いかけられた普遍的な命題です。もし空が書割でも日常は続く。このように我々が見ていない所には価値観や常識を丸ごとひっくり返し得るような事実があるのだという教訓。この作品は正にピーター・ウィアーが一貫して問い続けた命題を直球でぶつけて来ます。漠然とした懐疑をそのまま象徴的に形にしたかのような映画で一部で熱狂的に支持されています。

 

これらの作品が発するメッセージは正に欺瞞に満ちた現代社会の常識に対する哲学的な懐疑そのものです。プラットフォームサイトやアプリという仮想世界のソフト面のみならず市場独占状態になった無国籍大企業や大資本どころか資本社会や近代文明という自分が気付かないままに乗っているプラットフォームはいつ変貌するか分からない。かといって毎日PCでCGを作っている我々はアーミッシュのように地産地消でプラットフォーマーを排除する事はできません。リスク回避の為にできるだけ使用ツールの選択肢を増やし分散投資をする位しか抵抗手段はありません。スワデシ運動もスローライフも不可能な所まで利便性に溺れてしまった我々の生活は電気や食料の流通が途絶えるだけで一瞬で破綻してしまう程に脆い。ネオリベ化した資本社会が行き詰まり文明が文化を殺戮する局面に至った今だからこそピーターウィアー作品の意味を再認識すべきです。