サラの鍵
誰もが有罪
いわゆるホロコーストもの。それもこれはアモスギタイが『いつか分るだろう』で描いていたネタ。つまりはフランス人によるユダヤ人迫害。つい最近までフランス政府はその事実を否定し続けていたが、ようやく最近になってシラク政権はその事実を認め賠償を始めた。だが遅い。直接的な被害者のほとんどは賠償される事なく既に亡くなっている。彼らの子の世代ですら老い先短い。自然に考えれば動機からしても物理的にもフランス人がナチスに協力してユダヤ人を迫害してはいないという主張には無理があった。それでも今になるまで否定し続けたのは彼らの死を待っていたとしか思えない。歴史の授業でさえ全てナチスに責任を押し付けた嘘を教えられて私の世代は育った。疑問を呈しても教師たちが答えてくれる事はなかった。近代史の教育は欺瞞に満ちている。真実が語られるのは風化されて利害関係が曖昧になった後まで待たねばならない。
物語は1942年と現代をカットバックする構成で語られ、その二つの時代の人物が次第に重なり合っていく。フランス人に捕まったユダヤ人少女が弟を隠すために彼を閉じ込めて鍵をかけて来たので、彼を開放するために脱獄して自宅に戻ろうとする物語なのだが、弟がどうなったかは物語の中盤で結論が出る。それが現代とどうつながってゆくかまでが描かれているのだ。その悲惨な経験をした少女が及ぼす影響。隠しておきたくなる程のトラウマ。それを知った現代の関係者たちがどう生きるか。サラの事を調べている女性ジャーナリストは高齢出産に挑むか否か人生の分岐点でサラの残した物語に大きく左右されている。彼女の熱意に押され当時を知る老人たちは重い口を開き始める。日本でも「もういいだろう」と最近になって大東亜戦争について口を開き始める戦争経験者はいる。だが、その話の内容は未だに後の世代に強く影響を及ぼすほど強烈。
ブランネール監督の作品は初めてだった訳だが、かなりのもの。すごいガッツリ感。絵の作り方も適度なテンポも肉厚タップリ。日本に例えるなら高橋伴明、香港に例えるならパトリックタムって所だろうか。画面内の密度がハンパない。密集しているのだ。冒頭から布団の中で弟と姉がじゃれ合う所で始まる訳だが、この絵からして狭い布団の中に画面いっぱいに姉の姿を捕えていて絵作りのコンセプトが明確。捕まったユダヤ人が競技場に集められ自殺者が出る絵にしても密集した人々の中で目を逸らそうにも逃げられない悪夢のような怖さが出ているし、電車の中でナチスの兵隊と乗り合わせるシーンも手前側に座って談笑する兵士の顔を奥に座った主人公が見えなくなる程に大きくナメて圧迫感を煽っているし、母と子が分けられるシーンも半暴徒化した人々がもみ合う姿から放水まであざとい位の密度で画面を人間で埋める。この緊張感が見る者をグイグイと引き込むのだ。