映画『幸せなひとりぼっち』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

幸せなひとりぼっち

 

 

人が良くて何が悪い

モンスタークレイマー状態の迷惑親父。半年前に最愛の妻を失って以来、世間に心を閉ざして生きている。リストラで職を失い、いよいよ自殺しようという時に新たな隣人たちによる邪魔が入る。イラン人の一家が何かと頼って来るのだ。そんな訳で悪態をつきながらも彼らを助ける中で少しずつ彼の人生と隣人たちとの関係が語られる。この老人は良くも悪くも純粋だからこそ孤立し世間と敵対する。それはイーストウッドの『運び屋』や『グラントリノ』に描かれた老人と同じで自立したブルーカラーの保守的な態度。

 

先日、宮台氏襲撃に関して成田&西村が「あの人は優しくて公共的過ぎるから今の時代に合わない」なんてトンデモ発言をしていたが、その手の公共性がなければ社会という全人類の足元が崩れます。この主人公が父に関して語った通り「人が良くて何が悪い?」なのです。バカ正直な態度で損をする事よりも足元の社会が崩れる事を心配する方が真っ当な人間ではないだろうか。この主人公の場合は近所という狭いコミュニティに秩序を作り、それを守る事を自分自身の体裁より優先しているのです。だから共にその秩序を築いた古株の隣人だけは分かってくれる。それで充分なのです。ただ妻を失った彼はそんな隣人にすら心を閉ざした。それを抉じ開けられるのは逆に文脈を知らない全く違った常識を生きている人間。図々しく他人の心の傷に土足で踏み込める無神経さによってこそ救われる時もあります。

 

かつて佐藤忠男はドライヤーやベルイマンという北欧の宗教映画作家を総じて「ノイローゼな映画を撮る奴ら」と切り捨てた。ドイツでも鬱は国民病なんて自虐ネタはメジャー。スカンジナビア半島の繊細な感覚の住人だけでは解決できない問題も中東の大さっぱさが入る事で上手く転がる事もあります。これこそが多様性の利点なのです。だから私はバテレンや鬼畜米や親米クズジャップのような均一化を促す啓蒙主義を軽蔑するのです。よくスウェーデンに移民が入った頃に犯罪発生率が激増した事実だけを指してヘイト感情を煽るゴミウヨがいるが違う文化が交われば衝突が起きるのは当たり前であり、それでも大概の人は地元に溶け込みます。そうなればもう地元民と同じで『午後8時の訪問者』みたいに心を通わせ得るのです。グローバリズムのような無分別には歯止めをかけるべきだが違いを尊重し合えないゴミウヨやクソパヨの啓蒙主義者はインターナショナリズムすらも持ち得ないだろう。