『呉清源』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

2007-12-13の投稿

呉清源 極みの棋譜

 

 

衰退する璽宇

 

またしても日本公開に漕ぎ着けたのは古いネタ。日本で一般公開されたティエンチュアンチュアンの作品には現代劇がほとんどないので懐古主義者だと誤解されがちだが、一方で『ロック青年』や『特別治療室(日本未公開)』なんて軽い現代劇も撮ってたりもします。基本的には一貫した作風もこだわりもありません。逆に云えばブランドを示さなくても撮り続けられるだけの実力を持った作家のひとりです。辺境に左遷された親元で育ったせいなのか、チベットやモンゴルで撮る事もあり、そこで見せる多用な作風は他の第五世代とは一線を劃しています。むしろ中国の映画ってよりも中央アジアや旧ソビエトの映画に近い魅力を発しています。だからドキュメントの神様ヨリスイヴァンスに媚びた批評家たちの政治的見解だけで高く評価された第五世代を旧満州や北京からの伝統を生かし切れない評判ばかり一人歩きした中国映画の恥だと嫌う私のような人間でも彼の作品にある中国映画とは全く違った味わい深さだけは嫌いになれません。

 

今回の内容は碁の話ってより伝記。特に強調して描かれていたのは紅卍字会と合流した璽宇に関するエピソード。その前後は断片化されていて解説の字幕なしでは何が起きているのか分からないほどに説明的な部分を排除しています。一貫性や場と場の繋がりよりも個々のシーンの完成度を重視した演出。外国人が演出したとは思えないほどバックの群衆の動きやガヤにまで実に細かく気が配られています。教室で子供たちを自習させて知人と話し込むシーンみたいに演出として掌握が難しい所でも全く隙がありません。技術的な再現力の差がなければ当時の記録映像と見紛うほどの芝居。ちゃんと記号ではない日本人の生活感が出ていて同じ日に続けて見た『サウスバウンド』よりもよっぽど日本映画に見えてしまいました。

 

それにしても予告が力強かっただけに期待し過ぎました。総合的な物語の力ではなく、抜け目なく作り込んだ場で見せる作品だけにダイジェストになると物凄い作品に見えてしまうのです。前作『春の惑い』も流れより場を優先させ作り込まれた芝居だったが、オリジナルからして登場人物が少なく心の機微が肝になった作品だったから今回よりも分かり易い。登場人物が多い今作はある程度史実を知らないと何が起きているのかすらも分かり辛い。川端や坂口の紹介シーンすらない。最近ソクーロフBOX2を入手して再び『モレク神』を見たが、やはり歴史的人物の人間性を暴く場合、こういった逆境や日常的不安が表れた部分ばかりを強調し他はザックリと切り捨てる語り口は人間を知るという目的意識に対しては極めて合理的です。だからこそ衰退する璽宇にいかに関わったかが強調されているのでしょう。「私の人生には碁と真理しかない」と字幕で流されていた部分の重さを観客の側から察しないと入り込めないってのは不親切ではありますが、そのストイックさが魅力でもあります。正に対話を重ねた監督と棋士のストイックな個性の衝突。