『武器庫』の感想from映画生活 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

2008年06-03の投稿
武器庫(アルセナール)

 

 

第一回人民大会


ロシア映画初期を代表するエイゼイシュテイン、プドフキン、ドヴジェンコの三大巨匠はいずれも国策として革命映画を作り続けた。それだけに特に20年代頃の初期作品の多くはメッセージや語り口が簡潔で分かり易く今見てもあからさまなヴァイタリティを感じる事ができます。そこには確かにより力強い映像を作る為の個々の作家の工夫が生きていて、より激しく映画を躍動させている訳だが、この三大巨匠それぞれの主張が明確に作品に表れるのはもっと後になってから。スターリン政権下の検閲が厳しい中で作っているから最後まで自由な創作ではなかったものの、文革中ですら作り続けたシェチンのように毒を含ませるって形で個々の作家性は次第に明確になる。ただ、この時代にも確かにその予兆みたいな物はあり、スタンスや気質はどの作品にもちゃんと表れている。熾烈なまでに力を求め続けたエイゼイシュテイン、精神的な深い愛を示し続けたプドフキン、そして生命の営みを刻み続けたドヴジェンコ。


アルセナールとはウクライナで第一回人民大会が開かれた場所。ロシア本土から飛び火した革命熱を受け労働者たちは決起し始める。「道でブルジョワを見かけたら殺していいか?」愚直だが真を突く質問。「殺してもいいぞ!」白軍との衝突は激化。そのうねりの中でウクライナ民族として差別を受け続けた主人公は労働者としての意識に目覚め始める。征圧部隊にいくら撃たれても倒れない労働者。スターリンに気に入られるのも頷けるストレートな革命映画です。だがドヴジェンコらしい凶暴さも効いています。冒頭から戦場へ行った3人の息子たちの帰りをメつ母と故郷の情景。通りすがりに彼女のおっぱいを揉む警官。ブレーキが壊れて運休になった故郷への列車を帰還兵たちは無理矢理走らせ事故を起こす。汽車が止まらないであろう事は分り切っていたはずなのに。そんな小さな理は耳に入らない。暴徒となった帰還兵たちは欲求のままに故郷へと突き進む。帰郷への想いの前には近代文明の理など簡単に押し崩されたしまう。理など人間の欲求に比べれば微弱。


古くから各地の民話には常識じゃ考えられない超自然現象が登場する事がある。それらの多くは人間の本能的な感情が現実をも超越した形での表現。今平さんはそれを自らのシナリオの中では”狂気の部分”と位置付けた。それらの細かい例をあげるならば『赤い殺意』でハンカチが舞う部分や『楢山節孝』で枯れ葉が舞う部分や『カンゾー先生』で破り捨てた訃報の切れ端が舞う部分。つまりは常識的な理よりも不定形な衝動が不可解な現象として画面に現れる表現。この表現において初期のドヴジェンコは圧倒的に長けています。やはり純粋に生命の力を追うと衝動が理屈に先立つ。クライマックスに起きた出来事は奇跡なんかじゃない。いかに形を変えても野性的な衝動は文明という狭い範疇に留まる事はない。それは激しく猛り文明というメッキを剥ぐ。

 

アテネフランセにて映画の授業